2016年8月29日月曜日

照沼重輝の中国彷徨記(長春滞在)・・・6

2016.8.29月 体風近し 午前5:52
 長春の思い出は日本軍が遺棄した毒ガス爆弾処理に使う機器類の売り込みに商社の
応援で行ったことである。ノルエイ―の商社が日本にあり、その会社からの依頼で長春まで
出かけた。長春の高層ビルからの眺めで大きな山が北方に見えた。案内人の言うことには
「今日はあの山のむこうで北朝鮮の金正日氏が会議をしている」と言われた。
北朝鮮と中国は国境を一つにしていることがあらためて実感した。思うに、中国北方国境は
歴史上はいつも紛争が絶えない地方であったが、新中国成立後は安定していた。しかし、
最近は何やら人騒がせ的なことが起きている。何故だろうと考えるが、その原因の一つには
人種が入り混じっている地方であることでないだろうか。朝鮮半島を取り巻く人種は、日本や
漢族、モンゴル族、ロシア人がいる。ここ2千年の歴史を紐解いても、朝鮮族、漢族、ロシア人
、モンゴル人、日本人が相争った地区であることが証明されている。俺はそのような地方に
商談をしに行ったことは面白い経験ができた。商談の中身はさておき、次回は大連を記しま
す。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝


2016年8月27日土曜日

照沼重輝の中国彷徨記(済南の展示会)・・・5

2016.8.27土 曇天 午前6:02
 友人の会社が作っているトラックボデイを中国で売り込もうとして済南の展示会に出品
した。その応援で済南に通訳や技術者達と出張した。空港を出ると迎えの車が来てい
た。その女性運転士に泰山に行きますかと言われたが、忙しいので断り、真っ直ぐホテ
ルに向かった。泰山は有名な山であり、一度は行ってみたいと思っていたが辞めた。中国
の旅は殆どが仕事中心であるから、個人の欲求だけでは動けないのである。ホテルには
先遣隊が待っていた。彼らと夕食を一緒にしたが、済南の食べ物は塩辛いことだけが
記憶に残っている。始皇帝の泰山や黄河文明の発祥地でもあり、それなりに歴史は古い
町であることも分かった。展示会が終わったら歴史を見学することができると思ったが、
その実行は未実現となってしまった。翌日、展示会が終わり、時間の余裕が出たので
少々の見学ができたが、特に興味深い歴史観は味わえずに終わった。中国経済の
夜明けのような時代にその国内を彷徨っていたことが懐かしく思える昨今である。
  次回は長春のドタバタを記します。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

 

2016年8月25日木曜日

照沼重輝の中国彷徨記(北京初体験)・・・4

2016.8.25木 快晴 午前6:22
 北京に初めて行ったのは1982年の34年前であった。当時の北京空港は歴史の発展
に置いて行かれた鄙びた国の空港のようであった。茨城県日中友好協会の団体に混じっ
て訪中したのであった。当時の中国は長らく閉ざされた国であったが、鄧小平の政策の
改革開放政策で、国がやや夜明けの薄明かりが射したような状況であった。夕方、北京
の薄明りの空港を出て、お迎えのバスに乗りこんだ。空港から北京の町に入るのは旧道
を通っていった。農村住宅街を抜けて町に入っても電力不足のせいで町の灯りが乏し
かった。その暗闇の中を人々が涼を求めて散歩をしたり、公園の灯りの下で卓球や
玉突き、テープをガンガンかけてダンスを踊ったりしていた。男は人民服で女性はおっかぱ
頭で地味な服装をしている。町の中に人混みがあるので目を見張ると、口論している
2人を眺める人混みであったりした。とにかく人混みが見たことのない人数であり、人民
パワーの坩堝を目のあたりにした。ホテルに着いたが、バーや資本主義特有の派手な
キラキラ感が無く、とにかく寝るだけを備えたようなホテルであった。しかし、ホテルは
五つ星であり、かの有名な北京ホテルであった。誰かとぶつかり腕時計のガラスが割れ
たので修理をしようとホテルマンに聞いても何の解決策も講じてもらえなかった。とにかく、
北京は当時の東京と比べて40年は遅れた町であった。最近の北京は凄まじい発展を
した町となっているのだが・・・・・・。
 明の墓や有名なところを歴史も知らずに見学したことだけは覚えているが、本当の
庶民環境は見学できなかったが、その後に度々北京を訪れ、庶民生活のの真っただ中
を今も歩いているのである。覚えているのは北京ダッグの有名店で当時の要人と会食
ができたことである。次回は済南滞在記を記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月24日水曜日

照沼重輝の中国彷徨記(玄中寺へ)・・・3

2016.8.24水 曇天 午前6:27
 玄中寺に行こうと思ってかれこれ周辺に聞いたが道を知っている人はホテルにいなかった。
俺は外に出てホテル前のタクシー運転手に聞いた。寺の名前を漢字に書いて示したら、その
運転手は分かると言う。直ちに商談成立、俺たちはホテルに荷物を置いてタクシーに乗った。
ホテルから南方に80kmの距離であり、要する時間は往復5時間の道のりである。山西省
太原は石炭産業の有名な町であり省都でもあるが、現地に行くまでは相当な田舎に見えた。
約3時間後に玄中寺の麓に着いたが、山の頂上に寺らしきものが薄ぼんやり見えるだけで
ある。何と頂上に上がるには歩くか、細い道路をくねくねと用心深く車であがるだけのようで
ある。しかし、細い道路の上り口に日本のテキ屋のような人相の悪い人が数人が店を出し
ている。俺は知らんふりをして細い道路に入ろうとしたら、「待て、上に行くならば通行料を出
せ」と言われた。金額は30元である。俺は10元ではどうかと言うと、彼は駄目だ15元だと言
う。そこで、俺は20元を支払い彼のにっこりした顔を確認し、堂々とゆっくり車を上に向かって
走った。中国には時々このような経験をしている俺には理解できるが、日本人には分からない
田舎地元の習慣に遭遇する場合がある。玄中寺の正門に辿りつけ、タクシーを降りて下界を
眺めたら、そこはまるでグランドキャニオンのような景色であった。このような景色は、観光
事業の大きな資本になるであろうと思えた。玄中寺で永代供養のお願いをしてお金を支払い
山降りたが、降りる時はお金を支払わないで済んだ。私的通行税にも良識があるのだなと
思えた。次回は30年前の北京初体験を記します。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月23日火曜日

照沼重輝の中国彷徨記(山西省玄中寺)・・・2

2016.8.23火 台風一過 午前5:13
 日本人の有名な人のお骨をもって永代供養のために玄中寺に行ったことがある。
その政治家は地方政治家であったが、国際問題を良く把握していた。その息子と
俺は、彼の遺言通り玄中寺に永代供養をお願いしに行ったことを記します。
 夜の8時頃、息子は北京から太原に向かう。俺は上海から太原に向かい、太原
空港で待ち合わせをした。俺が彼より遅れて着陸をして待ち合わせの空港出口に
行くと彼は現地の人と何やら話をしていたのであった。俺「ヤーヤー遅れて悪い、
待ってたかな」彼「現地人と楽しんでいたよ」と屈託のない挨拶をくれた。俺は中国
でホテルを探すコツを知っている。中国の空港には一流から?流までのホテルの
お迎えが来ていることが多い。俺はその客引きの出迎え人の所に行って「マイ
タン」と聞くと、出迎え人は「500元、1000元」などと答えるのである。俺は50%
の値引きを申し込みながら出迎え人の所をぐるぐる歩くのである。そこで大事なの
は出迎えのバスがあるか否かのホテルが安心ラインなのである。ホテルまで
タクシーで行くかバスで行けるのかを確認しないと、やがてがっかりする場合が
生じてしまうのである。何やかんやの交渉をして二人でバスに乗りこんだ。
忘れたが、もう一つの交渉をしなくてはならないのである。つまり朝食付きか
どうかも確認が重要である。朝食だけで50元や100元がぶっ飛んでしまうから
それを惜しんで交渉をする。大概は朝食がサービスになると思うが、そうでない
場合もあるので要注意しなくてはならない。このように業務旅が多い私は、常にコ
ストを考えてしまうのである。バスの乗りこめた私たちはホテルについて夕食も
ままならないで寝込んだ。次の朝に朝食を食べながら玄中寺の場所を聞き込ん
だら誰も聞いたことが無いと言われ愕然としてしまった。「さーどうしよう」が日本
から4000kmも離れたところで起きてしまった。次回は玄中寺に辿りつくを記し
ます。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 

2016年8月22日月曜日

照沼重輝のアメリカ中国彷徨記(西安の表情)・・・1

2016.8.22月 台風近く 午前4:38
 西安には2回ほど行った。1回目は高校同窓会で行き、2回目は商売で行った。1回目の
旅は旅行会社を頼まないで同窓会独自の企画で旅行した。西安で2日を楽しみ、上海で
2日を楽しんだ。西安ではバス1台をチャーターして兵馬俑や秦の始皇帝の墓や西域への
出口を見て回った。何と言っても兵馬俑は圧巻であった。始皇帝が地下に死後の世界を
作り、死後と言えども安心していられるような空域を作ったのである。そのスケールは大陸
ではの大きさである。数千体の2メートルほどの軍人の像や武具などと一緒に埋葬されて
いるのである。その軍人像の顔の表情は一体ごとに違うのである。正に圧巻であった。
次に始皇帝の墓に登ってみた。ピラミッドのような作りの墓で周囲数キロの墓であった。
遠くに祁連山が見えたが、歴史に出る数々の地名を思い出した。西域の出口に立ち、
「砂漠に伏すとも君笑うなかれの」の漢詩を思い出した。西域奥地の数々の歴史が思い
出された。特に敦煌の映画の一場面をロマンテックに思い出してしまった、中国大陸の
ケールはアメリカと違う広大さがある。西安の夜は人民と一緒に広場で踊ったり暗闇を散
歩したりしてANA系のホテルに戻り、豪華な部屋で始皇帝を偲びながら満足な一人寝を
した。
次回が太原玄中寺での永代供養の思い出を記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月21日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(アメリカ旅最終版)・・・50

2016.8.21日 快晴 午前6:34
 クラバウハウスの前でぼんやりと帰りの車を待った。夕陽の丘の向こうからグレーのレキ
サスミニバンが近寄ってくる。運転席にアジア人が見える。だんだん近づいてアジア人の顔
がはっきりしてきた。彼は上海人の郁遜であった。懐かしい顔がよりはっきりした。思わず
レキサスに近寄り、運転席から手を入れて彼に握手を求めた。彼も懐かし気に握手を返し、
車を急いで降り、俺のゴルフクラブを荷台に積んでくれた。俺は事前にゴルフをやることを
連絡したので、彼は気を利かして俺を迎えに来たのであった。彼はレキサスを駐車場に入れ
て、ゴルフ場を見学したいと言う。数年前にゴルフを彼に教えたのは俺であった。断れないの
でゴルフ場に彼を案内するどころか練習迄付き合うことになった。一度積んだキャデイバッグ
を下ろし、クラブハウスに入り、カウンターに許可を得てから、練習グリーンに上がった。
同じグリーンにアメリカ人がキャキャ―言ってパタをやっていた。観察すると、18番ホール
で決着がつかないので、19番ホールを練習グリーンで勝負をしているようであった。いわ
ゆるチョコレートの決着をつけようとしていたのであった。それが日本にない勝負のつけ方
である。日本人なら引きわけは最高の勝負のつけ方であるから、次のチャンスまで持ち越し
になるが、アメリカ人には無いようである。日本人の俺には大変勉強になった。俺たちは
グリーンの練習とウッドやアイアンの練習をして、練習もアジア人同士の勝ち負け無しの
ような終わり方をして帰途に着いた。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 

2016年8月17日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゴルフ場の夕陽)・・・49

2016.8.17水 台風 午前5:08
 台風は水戸市の東南80kmの太平洋上にあると言うが、小雨だから静寂の朝である。
話は別だが、ゴルフ場から帰途の夕方に真っ赤な夕陽を拝める時が幾たびかあった。ゴ
ジャスなパブリックコースからの帰り際であった。肩にクラブを抱え、右手にゴルフバッグを
持ち、クラブハウスから出て迎えの車を待つために出口のベンチに座っていた時の話で
ある。なだらかな丘陵上のゴルフ場であるから見晴らしが良いところであった。俺はゴルフを
終えた和やかな目と表情でユッタリと遠くの山峰を眺めていた。その時に目に入ったのは、
巨大と言っても過言でない真っ赤なお日様が山峰に沈もうとしている間際であった。この
瞬間を何と表現をすれば良いのかは分からない。山峰から山裾まで照らしている赤々と
した光と大平原に陰と陽に被さる光の違いは、何と表現して良いか分からない表現になる。
この瞬間を人によっては、神々しいというか太陽に感謝する瞬間か、それとも明日への
幸せをお願いする瞬間か、どうにも言いようのない瞬間である。俺は瞬間的に太陽に
お願いをしてしまったのは、その時はアメリカ大陸のレンタカー横断中であったから、
交通事故を含めた災害払いのお願いをした。正に日本人的便利な宗教心の現れであろう
と考えている。次回は50回目になるのでアメリカ大陸の場面を終わりにします。そして
次に中国大陸の面白いことや一般人が経験できない場面を記してみます。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月15日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゴルフ場の支払い)・・・48

2016.8.15月 快晴 午前5:20
 ゴルフが最終ホールになりクラブハウスに戻り会計を済ませるところところを記します。
結論から言えばアメリカでのゴルフの会計はプレーする前に済んでしまいます。クラブ
ハウスに着いてカウンターで名前を記帳した後にカードで前払いをさせられます。
ただし、プレー後に飲食などをした場合は二度目の会計を受付で精算をさせられます
から、この部分を記してみます。
 いわゆるスルーで1ゲームを終了しますが、終わった後に仲間同士で軽い食事や
お茶を飲みます。ゲーム後の心地良い話や他愛もない話で寛ぎます。女性同伴の
グループや男性同士のだけのグループは、ゲームの緊張から解き放され、実に心地
良い会話で話が弾みます。隣のテーブルの会話を盗み聞きしてしまったことがありま
すが、英会話の実力不足から断片的な話しかしか分かりませんでしたが、お披露目を
します。白人男性「グリーン近くが駄目だな」同伴者「ボールが曲がる、直さないと」
白人男性「一打5ドルだから30ドルだ」同伴者「ここの飲料代にして」白人男性「OK」
だ。というような内容で笑い声が聞こえた。どこの国でもゴルフ終了後の第二次精算が
あることが分かったのであった。
  カウンターで飲食の精算を済ませ、クラブハウスを出る頃には、西の方面に大陸
特有の夕陽を拝めるのである。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月14日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゴルフ心)・・・47

2016.8.14日 快晴 午前5:06
 オリンピック開催期間は早寝早起きになっている。
 ゴルフで一人前になるのは長い時間がかかる。俺はだらだらと37年間のゴルフをしてき
てしまった。理由は練習と本場場での密度の濃いゴルフをしなかったからである。友達と
楽しむためのゴルフでしかなかったからである。そのようなゴルフへの取り組み方は、アメ
リカでも発揮されてしまった。そもそも日本のゴルフ場の作りとアメリカのゴルフ場の作りは
違ったのである。場所はカルフォルニア州のサクラメント市のパブリックコースでの最終ホ
ールに近いホールでの出来事であった。俺の第一打目をアメリカ人が「ファインショット」と
言って褒めてくれた。俺はミドルコースの第一打目をフェアウエーのど真ん中に距離を出
して運んだ。二打目もファインショットを狙って打った。頭の中は又してもファインショットを
狙うという力を入れる落とし穴が待ち構えたのである。スプーンを持った両肩の筋肉は満
杯の力を入れて二打目を打った。力を入れ過ぎたスプーンはボールの頭の5mm程度の
上部を撫でただけになってしまった。可哀想にボールは僅かに30m先に飛んだだけであ
った。俺は愕然として視点の定まらない目を天空に注いだのである。ゴルフはプレー中の
一挙一動を喜んだり、怒ったり、悲しんだり、恥じたり、自慢したり、反省したりを味わえる
ゲームである。これらのことは最初からは分からないが、ゲームが終わってから分かる
のである。このようなことが分かってきたのは、頭の足りない俺でもゴルフ歴37年を費や
したからであると考えている。
 次回からはゴルフ場の精算からオフィスを後にするまでを記します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝


2016年8月4日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゲーム後半)・・・46

2016.8.9火 快晴 午前6.51
 スルーで次のコースに入った。白人アメリカ人は5オーバー、黒人アメリカ人は7オーバー
俺は8オーバーで後半のハーフに入った。それぞれ三人は思い思いを胸に秘めて後半を
迎えたのである。俺は三番目の打順となったので、前の2人が打つのを眺めた。白人は
テークバックが浅くボールが右に飛んだ。黒人はゆったりとしたスピードでボールを打つこと
ができたので真っ直ぐに飛んだ。俺も力を抜いてゆったりとしたスピードでボールを打った。
俺のボールは青空に真っ直ぐ上り、二人の30ヤード後方に落ちた。ミドルで残りが200ヤー
ドはあるようだ。あとの2人はゆったりとアイアンをもって俺の二打目を待っていた。俺は
頭に描いた全体のリズムで、テークバックをゆっくり、つま先立ち、顎を引いてボールを
スプーンで打った。このリズムが功をたて、ボールはジェット機の離陸時のような弾道で
フェアウエーを離れて飛んでいった。白人と黒人が「ファインショット」と叫んでくれ、俺は
自己満足感から思わず直立不動で二人にお辞儀をしてしまったのである。アメリカでは
そのような作法が無いのであろう。二人も俺に見習って無骨なお辞儀をしてくれた。この
調子でいくとバーディが出るかもしれないと、早くも崩れる発想になっていることを忘れて
グリーンに向かっていた。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝


2016年8月3日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(昼時と駐車場)・・・45

2016.8.3水 晴れ入道雲 午前6:42
 アメリカのゴルフ場での昼時は日本風でない。ゲームの途中はクラブハウスに
入っての昼食は取らないようだ。しかし、女性が乗ったカートがサンドイッチや飲料
を持って売りに来る。そのサンドイッチも二人で食べるようなボリュウムであるから、
俺は買ったことが無い。スタート前にクラブハウスでサンドイッチを買ったことはあ
るが、ゲームの途中では手が出ない。食欲どころか、スコア欲が先行しているので
ある。ゲームが終わればクラブハウスでゆっくりと食事が出来るが軽食の範囲で
ある。とても酔うほどにアルコールは飲めないのだ。周りのテーブルを見ても、紳士
や淑女がマナー正しく食べたり飲んだりしているのである。俺は他の客を見習いな
がら食べたり飲んだりしたものであるから全然美味しくなかった。だから、昼食時の
風景は詳しく記せないのである。ゴルフ場の駐車場には高級車や中型車が並ぶが
コンボーイ野郎の車両前部が停まっていることを見たことがある。聞くところに
よると、運送途中や運送終了後にゲームを楽しむそうだ。アメリカではのゴルフで
あるようだ。次回はゲーム後半を記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年8月2日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ゴルフスタイル)・・・44

2016.8.2火 曇り 午前6:43
 ゴルフプレイヤーにはうっとりする男がドキドキ見られる。どのような形かというと、
身長180cm以上、細身、長い脚に細身の明るい色のパンツを着て、飛び切り明る
い色の半袖シャッツ、帽子はひと際冴えたブランド品、靴はピン社の高級品、グラブ
も安物でないもの、帽子の下から見える白い肌の顔、目はブルー、髪は金髪、半袖
の下から見える二の腕は日に焼け、たくましく太い腕、ベルトの下の腰は贅肉が無く、
形良いふた山につながる。
 俺はこのような形のプレイヤーとカルフォルニア州サクラメント郊外のゴルフ場でプ
レーした。俺の形と言えば、身長160cm、体重72kg、頭髪は染めた黒髪、足の長さ
は普通で太く、腰の周りに贅肉がたっぷり着き、地面を踏みしめる足元はフラフラだが、
風貌で劣っても腐ることなく、最後までアメリカ紳士とプレーをしているのである。勿論、
このような体形に似合う服装は無い、俺は諦めて昔の尾崎プロのスタイルでゴルフを
いつもしているのだ。香港映画でよく見る悪役スタイルであると言われてもしょうがな
いほどの形であるが、アメリカでのプレーも尾崎スタイルで過ごしてしまっている。今思
うと、同伴競技者のアメリカ人は「日本でのゴルフもこのスタイルか?」と言いたかった
ろうと思う。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝