2016年5月31日火曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(掻き集め)・・・7

2016.5.31火 曇天 午前7:03
 わりかし簡単にモーテルに着いたが夕食はまだであった。モーテルの四方
を観察したが、森や工場群でレストランやコンビニはなく、仲間は夕食にあり
付ける不安を感じているようであった。俺は子供の頃に親父から「常に捨て目
を使え」の教訓を教えられていたので、モーテルに来る道中に商店街や
店らしき通りを目をつけ、何もなければこの辺で食料を買おうと考えていた。
大陸を渡る時は役立つ「捨て目」を心がけていたので、その捨て目のお蔭で
中華弁当屋を見つけておいたのである。Oさんが日本からマグロの刺身、
Y君は一品の日本酒、俺は茶菓子と出して、素早くあり付けた中華弁当を
臨時のテーブルに並べ、酒盛が始まったのである。とにかく温かい湯気の出る
弁当を食べられることはリッチな気分になれるということである。
  宴会では明日からの道程を言い、仲間の様々なアメリカ情報を話し合った。
あそこにも、ここにも行きたい、これもあれも見たい話しで賑やかな夕餉の
掻き集め料理のひと時を掻き集めた食材で楽しみました。特に、日本から持っ
ていったマグロと一品の酒の旨かったことは彷徨冥利に尽きました。
  明日は再マンハッタン進入です。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月30日月曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(一度NYの外に)・・・6

2016.5.30月 雨 午前6:17
 チープ旅行のためにマンハッタン島には泊まれない。とても高額で一夜限り
なら我慢して泊まるが、今回の彷徨ではアメリカに15泊以上泊まることになる。
泊まるホテルを全部五つ星にしたら、ザーッと25万以上になってしまう。ホテル
をモーテルに代えると、15泊で高級的なモーテルに泊まっても12万円前後と
なる。しめて13万円の節約になり、レンタカーの半額は節約できることになる。
そういうわけで俺たちは隣の州のニュージャージ州に行くことになった。その
距離は約往復で50kmと思えた。マンハッタンの自由の女神を背中にして9A
という道路に乗り、ジョージワシントン橋を渡り、IN95(州間高速道路)に乗り南
に進むと一泊6千円程度のモーテルに泊まれる。アメリカのモーテルの値段は
安めから5千円、中級8千円、高級1万円以上となる。俺は安めが無い時は
中級までは我慢をするが、高級しかない時は100kmくらいを走って安めの
ホテルを探すことにしている。全員異論なく安めのホテルに向かい、一寸迷い
ながらもモーテルに辿りついた。安めのモーテルの泊り客は、工事者、セール
ス社員、学生などが多く見受けられた。駐車場に停まっている車は、工事専用
車等が多く、一目で分かる安宿であった。周りは畑か資材置き場のような所の
モーテルである。俺たちは日本から持っていった刺身と近くで買った中華弁当を
1人の部屋のテーブルに広げて宴会を開始した。宴会を開始できるまでの結末
明日に記します。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

明日はどうになるのやら?

2016年5月29日日曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(戻った)・・・5

2016.5.29日 快晴 午前7:31
 若き友人が大汗をかいて吹っ飛んで戻ってきた。何事かと問いただした。
友人「いくら探しても店が無い」俺「何とかなるからいいよ」友人「また行ってくる」
俺は諦めて、「今度無かったら諦めよう」友人は無言で出て行った。俺は島国人
大陸人の違いを考えてしまった。島国人は何かの目安が無いと歩けないのだ。
大陸人は聞きながら歩いていく。その地の人に聞くのが一番と考えているようだ。
俺には島国人の気質が理解できる。他人に何かを聞くのが、恥ずかしい、面倒、
教えてくれるかな等の躊躇があるのだ。大陸人は他人に何かを聞くのは当然と
考え、恥ずかしさ等を微塵も考えないのだ。ここはアメリカだ、分からなかったら
ドンドン聞こうと意志の改革を決意していたら、若き友人が「あったー」と言って
自慢顔で戻ってきた。若い者の意志も大尊重しようとも反省心が起きた。若者
よ、ありがとうな。次回は、ローコスト目標で一度ニュージャージ州に入るを記
します。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月28日土曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(地図を買おうよ先輩)・・・4

2016.5.28土 曇天 午前7:01
 マンハッタンに北側から入ることになった。ヤンキースタジアムを右にして
左に進路をとった。いわゆるアッパーマンハッタンというところである。ハー
レムを抜けるとセントラルパークと世界の旗が立っている国連が見えてくる。
俺たちは南のハドソン川に近い道路を景色を見ながら、マンハッタンの最先
端の自由の女神が見えるところまで行くことにした。ハーレム地区は60年代
の景色がどころどころに残っていた。人種が多かったが、整然とされた街に
なっていた。当然であるが、待ちゆく人の服装も洗練された服を着ている
ように見えた。俺たちは時に駐車違反で車を停めてニューヨークヲッチング
とした。一番若い友人が遠慮がちに「先輩、地図を買おうよ」と言ってきたので、
俺が「どうしたの」と聞くと、後輩が「先輩の運転は何も見ないで走っている
ので何処に行くのか分からない」「心配だ」と言う。俺は思わず「心配するな
行けるところまで行く」「このまま真っ直ぐ走ると大丈夫だ」と言いたくなった。
しかし、考えると友人たちはニューヨークの雰囲気や有名な店に行きたく
もなるであろうと考え、言葉を止めて俺は「そうしよう」と言ったものの、今度は
本屋かコンビニを探すことになってしまった。レンタカーに待機組二人とし、
駐車違反になるので、ポリスに警告を受けたら付近に移動して難を逃れる
作戦を立て、地図を買いに行く人は二人とした。迷ったら困るので、30分探し
て見つからない場合は車に戻ることにしてその作戦を進行した。お互いが
何処にるか分からなくなったら携帯電話で位置を探ることにした。出発進行、
俺は車で果報を待つことにした。その間にアメリカナビの操作を確実に
マスターするつもりである。待ったが、なかなか来ない、心配になってきた。
次回は吹っ飛んで帰ってきたを記します。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月27日金曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨記(ハイウエースピード)・・・3

2016.5.27金 曇り 午前6:47
 来てしまった道を戻った。JFKを左に見てマンハッタンを目指した。しかし、
アメリカハイウエーのスピードに慣れていないので、注意深いスピードで
走った。道路の右端を進んだ。どんどんアメリカの車に追い抜かれた。チャン
ㇲを見て右端を抜けて追い越し車線を走ってみた。まだハイウエーのスピード
感に慣れていないようだ。時々クラクションを鳴らされ、俺を追い抜くときに睨み
つけられる目線を感じた。ハイウエーは二車線や三車線、時には四車線の
所もあった。日本の首都高と比較すると、ゆったりした広さが何ともいえない
安心感を感じた。俺は事故だけを起こさないようにして、マンハッタンに進路
を目指したが、途中で車の流れから迫り出されて目的地の三歩前の所で
一般道に降りてしまった。そこはクイーンズ地区の商業地区のようである。
車を路肩に停めて、ナビを入れることにした。慣れないと結構面倒なので
一番若い友人にやってもらうことにした。彼は面倒がらずに落ち着いてセット
をした。俺は今までにナビも利用したが、太陽の位置を見て移動をしてきた
ことが多いので、ナビセットは得意ではないのだ。ハイウエーに戻り、
マンハッタンを再度目指した。マンハッタンに北から入る道路を使うしか無い
方角を走っている。アメリカ音楽の「・・・電車で行こう」とかいうガードを
くぐった。この音楽を俺は思い出せないが、若き友人の説明を聞きながら
ガードを抜け、進路を今度は南に向けた。間もなくセントラルパークの
周辺に出ることになる。俺はこの辺ならばナビを見ずに自由の女神に辿り
着くことができると思った。レンタカーによる5回目のニューヨーク潜入だから
である。次回は「地図を買おうよ、先輩」を記します。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月26日木曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨(出られない)・・・2

2016.5.26木 快晴 午前6:57
 マンハッタンへの道に迷った。仲間にかっこ良く見せるつもりでなく、ナビを
入力するのが面倒くさくなったからである。ナビをセットしないで空港を飛び出
してしまった。他の仲間は俺に任せっきりで運転などするという考えは全くない
ようであった。俺はおかしいなと感じ始めた。マンハッタンの高層ビル群がどん
どん遠くなる。JFK空港はマンハッタンの東にあり、JFKから見ればマンハッタン
は西側にあたるのである。俺は機上の窓からJFK空港の全体の模様を先ほど
見たばかりである。記憶が残っていた、どうやらJFK空港の東側に来てしまった
ようだ。仲間は俺の心境を知らずに始めてきたニューヨークの気分を味わい
ペチヤクチャ話をしていて、俺の顔色を観察していない。俺は周囲の環境を
運転しながら、この辺が安全地域になるか否かの観察を始めた。何々系アメリ
カ人が多いような地域であった。日本でいえば埋立地のようで出稼ぎ労働者が
多く住んでいるようである。俺は危険を感じ、空き地を見つけ、突然のU-ターン
をした。仲間はそのUターンにビックリし、話を止めた。仲間「どうした」俺「方向
を間違った」仲間「突然なのでびっくりした」俺「反対に来てしまった」後ろの車
が警笛を鳴らした。道路の草むらから埃が舞い上がった。アスファルト
ジャングルのニューヨークで見た埃は記憶に残った。JFK空港を左周りにして
マンハッタンに向かい、次のアクシデントのために呼吸を整えた。
 次回は超スピードのアメリカハイウエーを記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月25日水曜日

照沼重輝のアメリカ彷徨(ゴルフV字縦断)・・・1

2016.5.25水 曇り 午前5:51
 アメリカの縦断の旅は三回、横断の旅は二回、メキシコ湾を徘徊する旅は
二回、ルート66を旅したのは一回、中西部へのミニ横断が一回、大西洋側
のミニ縦断が一回で通算でいうと十回のアメリカドライブ旅行を経験しました。
 一番の長い走行距離であった「アメリカゴルフ縦断の旅」から記していくこと
にします。
  最初の計画では、日本人五人だけで要所の都市でアメリカのゴルフ場で
プレイしながら旅をする計画でした。心弾んで成田に向かったが、ビザの許可
が下りないで成田から一人が茨城に戻りました。結果、四人が飛行機に乗り、
午前10時発、当日の午前9時ニューヨーク着のJAL便の席に腰を下すことが
出来ました。
  今回の旅は、成田~ニューヨーク~R95で東部のフェラルデフェア~ワシン
トン~R29でストラスビル~R81でアパラチア山脈の背中のハリソンバーグ
~R40でナッシュビル~メンフィス~ダラスに入る2400kmのドライブ旅を
経てダラスで休暇を取り、ダラス~アビリーン~R66 を経てニューメキシコ
~アリゾナのセドナ~ロス~サンタモニカ~R1を使い太平洋側を北上~
~ぺブルビーチ~サンフランシスコ~日本へ帰る全長約6000kmのドライブ
ゴルフ旅を記していきます。
  JFKケネデイ空港に予定通りの午前9時に着陸した俺たちは、入管と
税関を抜け、空港ビルの外に出てエレベーターに乗り、モノレールで
レンタカー会社のフロントに向かい、ダッジミニバンを手に入れ、そそくさ
に空港を後にした。この時、実はニューヨークは5回目なのでナビをセット
せずにマンハッタンに向かいました。道を覚えているわけでなく、遠くに
高層ビル群が見えるので漫然とマンハッタンに向かってしまったわけです。
これらの漫然さが、マンハッタンになかなか入れないことになってしまい
焦りを生んだ行程の始まりでした。次回はマンハッタンへの「遠い接近」
を記します。
         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月23日月曜日

照沼重輝の中国彷徨(南の景色)・・・47

2016.5.23月 快晴 午前5:41
 三亜で寛いだ。海に行ったり、山に行ったり、南国の夜の散歩をして屋台
で食べたりした。南十字星を探したが見つからなかったことが想い出になった。
 山に登った時に「天風海濤」の文字を覚えた。大きな石に赤い文字で刻んで
あった。俺はその文字を頂いて大きめの1トンくらいの水鉢を福建省の厦門
で製作をして、日本の自宅に輸入した。今でも俺の居間から見えるところに
鎮座をしている。時おり、眺めて海南島を想い出している。天に風が起これば
海に波が立つ、という読解で良いのか分からないが、そのように理解をして
いる。
  心の休みになった三亜を去る日が来た。ホテルを出ると、ことさら熱く感じた。
楽しいことから、挑戦をしなくてはならない現実に戻るのだ。揺るんだ五感が
徐々に戻ってくる。目が険しくなり、口を結び、顎を引き空港に向かう。香港
奥の深圳を中継して上海に戻り、一泊の後に日本に戻ることになる。
 今回は中国の海南島で一時終わりにし、次回からはアメリカ彷徨を記する
ことになります。先ずはアメリカでのゴルフをしながらの大陸縦断を記します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月22日日曜日

照沼重輝の中国彷徨(三亜浜)・・・46

2016.5.22日 霧 午前7:42
 黎族の支配する地域を出てから2時間で三亜についた。立派な別荘が目に
入る。聞くところによると香港やマカオの富裕層の別荘らしい。香港から40分
の飛行で来られるらしい。海南島には日本の中島プロの父親が作ったゴルフ
場があるらしい。プレイしてみたいが無理のようである。渡仮村という文字を
つけた別荘地があちらこちらにあった。海南島は別荘ブームが起きているよ
うである。俺たちは低層のホテルに宿を取ったが、中は高級なホテルであった。
 ホテルを出て、海岸を散歩した。第二次世界大戦で日本軍が上陸をした海岸
であるという看板が立っていた。海岸を南に歩くと「絶壁涯」というところで
左に歩くと高級浜というところらしい。俺たちは左に向かった。海を眺めると
1月2日に浜と平行にクロールで泳いでいる若者がいた。その奥に水平線
と揺ったり進む大型漁船が見えた。暫く海岸を散歩し、東方面に歩いた。
大きな海水浴場に出た。そこでは海南島へ遊びに来た若者達が男女で
ビーチバレーを楽しんだり、人を埋めての砂遊びをしていた。俺たちは貝殻
拾いをしながら、更に東に進んだ。夕陽が背中に落ちてきたので、ホテルに
戻ろうと誰かが声をかけたので、皆が一斉に回れ右をして戻ることになった。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月21日土曜日

照沼重輝の中国彷徨(猿と櫓船)・・・45

2016.5.19土 快晴 午前6:19
車外に出た俺たちは案内を受けて名所に向かった。突然山道から猿が出てき
た。先生ご夫婦、俺、建設会社社長、土木会社社長の男どもと女性一人の
旅であるも、東京近郊の俺たちは自然の生き物になれていない。俺たちは
立ちすくんだ。ジ~と猿の顔の目を見たが、次の動作を読み取れない。あた
リまえであった。猿は人間でなく獣である。俺たちは立ちすくんだまま、動け
無くなった。そこへ地元の黎族の少年達が数名現れた。猿を追い払ってくれた
ように見えた。猿がいなくなり、少年たちが残った。今度は、その少年達が
外国人が珍しいのか、俺たちから離れないで名所の所まで行ってくれた。
草叢の道路にもならない道路をしばらくあるいた。俺は少年に毒蛇は出ない
かを中国と日本語と英語のチャンポンで聞いた。少年達の足元を見ると
素足にサンダル履きである。答えを待たずに大丈夫かなと思いながら先に
進んだ。俺は時々ビデオを回した。少年達はビデオが珍しいようだった。映
してから戻して少年達にそれを見せる。それを繰り返しながら進んだ。今度は
鹿が出てきた。少年達も驚いた様子が無い。俺たちも驚かないようになった。
砂浜から一望千里が出来る場所に出た。
  海原に8人で漕ぐ漁船が見えた。初めて見る他人数の手漕ぎの船である。
日本での光景は2人で櫓を漕ぐ船しか見たことが無かったが、海南島の沿岸
で初めて見た櫓船であった。俺は辺りを気にせず感動してみていた。8人の
櫓手の息がぴったり合っていて船は力強く前に進んでいる。ビデオを回し、
友人たちに話しかけ、櫓の説明をしたが、あまり興味は無いようであった。
俺はそれでも一人で暫く櫓船の微妙な動きを楽しんだ。左、右、前と櫓の力と
波の動きに乗って、漁場に向か海南島の南海の漁民の力強さと浜の歴史の
匂いと空気を同時に感じた瞬間であった。フィルム式のカメラなので映像を
載せることはできない。残念。
  明日は日本軍と対峙した浜を記します。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月20日金曜日

照沼重輝の中国彷徨(長居は無用)・・・44

2016.5.20金 曇り 午前6:23
 東山温泉を出て、更に南の三亜に向かった。途中で黎族の支配する海の
見える観光地に寄ろうということになった。朝からびっくりしたことが二つあった。
一つは豚の話である。道路を腹が地べたまで垂れた豚がのんびり渡って
いた光景にぶつかった。話には聞いていたが、腹が地べたまで垂れさがる
なんて、日頃はどのような動きをしているのだろうと思った途端、腹の出てい
る友人が「人間も怠けるとあのようになってしまうのか」と呟いた。バスの
中がシーンと静まり返った。明日は我が身かの男が二人いたからである。
だが、俺もそのうちの一人である。朝から、微笑ましいのを見たが、淋しい
気持ちにもなってしまった。次は、海の見える観光地に入っていったら、
黎族の若者が経営している駐車場に向かってしまった。いや、向かう他
無いようにされてしまったのである。一本道のどこからか、突然現れた若者
三人が、ボンネットの左右に各一人、車の前方数メートルに一人がついて
我々の車を他の駐車場に入れないように邪魔して誘導するのであった。
我々日本人は無口になってしまった。俺は安徽省千島湖の台湾人の大量
殺人事件を思い出してしまった。船の中に数十名を閉じ込め、火をつけて
皆殺しにして、金銀を奪った事件でる。俺の頭は防御方法を構築し始めた。
彼らの腰の周りと、目の動きを観察した。彼らは駐車場に入れるのに真剣に
なっており、我々を閉じ込める次の作業の目配せや次のシグナルは発して
いないように見えた。やがて広々とした駐車場に入った。数十台の車が駐車
していた。車を停め、手を出していた黎族の娘に駐車料金を払った瞬間、
俺たちは安堵感を持った。次回は猿と鹿、黎族の子供の纏わりを記します。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月19日木曜日

照沼重輝の中国彷徨(出発)・・・43

2016.5.19木 快晴 午前5:30
 出発して3時間が経った。南の国の風の温かさと、果物のような甘酸っぱい
匂いを嗅ぎながら走った。車外の景色は原色に近い色である。眩しい太陽が
俺たちの後を追いかけてくる。今日のお供は太陽だが、暑くて有難くない気持
ちになってきた。目指すは東山という地名だが温泉付きのプールがあるそうだ。
仙台出身の土木屋さんの社長が、「今夜は酒にあり付けるかな」と早くも夕食
の心配を始めた。昼時分になり、黎族が経営する飲食店に入った。何やら
分からない物を食べたが、何であったかは記憶にないほど、味が無かった。
原始的な食器で食べさせられたことは思い出した。少々のお土産を買い、黎
族の売り子に付き合ったら喜んでいた。その食堂でインドネシア系の音楽が
流れていたことも思い出した。すでにベトナム、インドネシア、フィリッピンに近
い所まで来ていることが実感できた。午後ホテルに着いたので、部屋に入るの
ももどかしく温泉プールに浸かった。温いプールで泳いで、腹が減ったので
近くの食堂を探しに出かけた。しかし、食堂らしきものはなく、あるのは日本の
田舎の万事屋のような店に辿りついた。屋根は椰子の葉で覆われ、壁は板張
り、隙間風と友達のような店であった。パンでも買って帰り、ホテルで齧りつき
淋しい夕食を覚悟した。ところが、アル中に近い友人が目ざとく酒を見つけた。
「飯酒」と書いてあり、ご当地で飯の時に飲む酒かと思い一瞬喜んだ。値段は
5元で日本円でいうと当時のレートで80円である。ずいぶん安いな思いなが
らも無いよりはあった方が良い酒である。パンとツマミと菓子類、それに飯酒を
買い込み、ホテルに戻ろうとした。友人が酒が足りなかったら、悲惨になるから
とあと2本多く買い込んだ。不思議な酒を持って、誰かが「大事に持てよ、割れ
たら大変だから」などと言い、ホテルに戻るために車に乗りこんだ。中国人の
運転士にその酒を見せたら、笑らうような表情を見せて、何やら喋っていた。
俺は長い旅の経験からピーンときたが、何も言わないでホテルに戻った。
夕食の開始である、袋から食べ物を床一杯に並べた。飯酒が3本立ち並んだ。
次回は酒の正体が分かったを記します。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月18日水曜日

照沼重輝の中国彷徨(海南島縦断)・・・42

2016.5.18水 快晴 午前6:44
 海南島の真北の首都の海口の五つ星ホテルで正月を迎えた。ホテルの
レストランで夜遅くまで全員で飲んだ。針が12時を過ぎたた時、一斉に
あけましておめでとうを唱えた。遅く寝た俺たちは、朝寝坊をしてしまい、
遅い朝食をかき込み、運転士付きでチャーターしたミニバンを待った。
ミニバンが来て、荷物を載せ、俺達は運転士とうまくやるために挨拶と
寸志を渡した。たった一夜の五つ星ホテルの夜であったが、正月元旦
を安らかに過ごせたのが、良いで想い出となった。ホテルを午前10時の
出発となり、南海を左に見て、最南端の三亜に向かうのである。
所々の地名は、定安、石壁、興隆、東山、万寧、黎族自治県等である。
今日は東山というところまで一気に走るが、その距離は約200kmと
推測できた。但し、東山は温泉があり、楽しみになった。左手が美しい海、
右手が岩肌を含んだ険しい山、真っ直ぐには入道雲と椰子の木の群れ、
正月に南国気分を味わう贅沢旅行の出発である。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月17日火曜日

照沼重輝の中国彷徨(海南島)・・・41

2016.5.17火 雨 午前6:14
 俺が実際に訪れた土地を南から出来るだけ詳細な土地名を挙げて記して
みます。
 先ず、海南島に行った時の話を言います。俺は恩師夫婦と建築業の友人
を連れ、上海を経て海南島に旅をすることにした。俺は日本を経て、恩師と
上海で合流し、上海に一泊、正月元日を灼熱の海南島で迎える贅沢な
旅行の計画をした。出発日は上海がスモッグに覆われ、飛行機は6時間
遅れて離陸、海南島まで3時間弱の飛行である。遅れに遅れた飛行機は、
大晦日の午後遅く、海南島の海口の飛行場に着陸をした。椰子の木と
温かくもきれいな空気が出迎えてくれた。ホテルは五つ星でデラックスだが
大晦日でもあることから、閑散とした雰囲気であった。行く前に海南島の
特色を勉強しておいた。高級車の密輸入の港と石油が出そうな南沙諸島
、昔は日本軍が駐在していたので、日本軍が残した鉄道がある、という
ことが特色である。さて、俺たちは大晦日を迎えるのであるから、ホテルで
忘年会をすることにした。1月1日の午前0時に、俺たちは「あけましておめ
でとう」を交互に言いたい。そして、日本人は年が変わった意識を持つので
ある。今年の最後の日と来年の最初の日は椰子の木が生えている南の
島にいるなんて言うことは贅沢極まりないと思ったが、楽しみの方が
先走ってしまい、ウキウキした気分でいた。
 次回は南国の大晦日と元旦を過ごした雰囲気を記します。
       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月16日月曜日

照沼重輝の中国彷徨(行った町)・・・40

2016.5.16月 晴 午前6:43
  中国の行った町を南から記してみます。海口、香港、広州、アモイ、
福州、台湾、台州、寧波、舟山、紹興、杭州、建徳、富陽、臨安、天目、
呉江、上海、昆山、南通、蘇州、常州、南京、揚州、南通、青島、煙台、
蓬来、北京、山海、大連、長春、長安、合肥、太原などを訪れました。
上記の町へ行くために、途中の小さい町は記していませんから、出来る
だけ地図を見ながら小さい町の思い出してみます。
  次回からは、海南島を車で縦断した時からの模様と様々な小さい
町での出来事を掲載していきます。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月13日金曜日

照沼重輝の中国彷徨(カラオケ)・・・39

2016.5.13金 曇 午前6:11
 連れて行かれたのは清潔感のあるカラオケ店であった。但し、店の装飾は
朝鮮風であった。チマチョゴリを着た女性がウヨウヨ溜まっていた。しかし、
俺たちの中に女性がいたので、店の女たちは同席料とチップを取れないので
がっかりした様子であった。俺は何食わぬ顔をして個室に落ち着き、ソファー
に座った。同時に大皿のフルーツが運び込まれ、飲むものを聞かれたので、
俺は紹興酒を頼んだが、無いと言われたのでウイスキーのシーバースの
安めを頼んだ。俺はカラオケ店の酒は注意と心得ている。封の切ってある
ウイスキーや客の残したビールの寄せ集めを良く出す店のテクニックを
見たり聞いたりしていたからである。酷い時には、つまみ等も寄せ集めの
時があった。香港、広東、上海等で良くその経験をしていた。そんな時、
俺は封の切ってある酒が運ばれた時は、「その酒、不要」と叫び、封のある
ボトルが好きだと言うのである。情け容赦無く叫び、その主張を通すのが
面白かった。その主張を店の従業員が笑顔で受け入れるか、そうでないか
を観察すれば、酒に偽りがあるか否を判別できるのである。今夜の店は
どうやら真面目な店のようであり、値段の喧嘩もしなくてよいようである。
中国のカラオケ店は最後は高い安いで揉める場合が大半の記憶である。
日本の男達よ、中国のカラオケは要注意ですよ。中国人のご同行を
頼んだ方が安心ですね。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月12日木曜日

照沼重輝の中国彷徨(朝鮮焼肉)・・・38

2016.5.12木 快晴 午前6:12
 俺はテーブルにのった朝鮮焼肉をやたらと口に入れた。味なんかはどうでも
良いという食べ方をした。中国人は中華料理式にゆっくり食べていた。俺は
焼肉台のガス火の炎の動くリズムに合わせ、忙しく肉を口の中に入れ、
その肉を噛んだ。思えば、俺は日本人の丼物を食べるリズムで食べていたの
である。食べるリズムはお国柄を表すものだと思えた。肉は日本のサーモンピ
ンク色でない黒っぽい牛肉が使用されていた。野菜は日本と変わらずであり、
付け汁の味は自分で調整して、甘くも辛くも出来るようにしてあった。青島ビー
ルと中国産ワインを交互に飲んだ。相手方も同じように飲んでいた。チマチョゴ
リ嬢が、時おりテーブルの近くにきて笑顔を振りまいてくれていた。俺はだんだ
ん酔いが回り、食べるための口の動きから、喋るための口の動きになって
いた。俺は中国人に朝鮮文化に接触できる場所を聞いた。彼らは異口同音に
「カラオケ」とさけんだ。俺の最も飽きてしまう場所であるが、二次会をカラオケ
店の決め、そこに向かう準備を始めた。
  約2時間弱の朝鮮料理の時間は何を食べたか記憶が少々となってしまった。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月11日水曜日

照沼重輝の中国彷徨(朝鮮方式)・・・37

2016.5.11水 雨 午前6:00
 青島の五つ星ホテルに泊まった夜の食事は焼肉飯店と決めた。本場の
チマチョゴリを着た女性が給仕をしてくれる海岸沿いの店に行った。どうして
こんな海岸線の急な斜面に店が建てられるのかなというような場所にある
店である。窓際のテーブルに席を取った。同伴者は青島で魚加工をしている
俺の親戚の会社の女性通訳と男性の渉外係である。本場の焼肉店の店作
りは、朝鮮族の一種独特の雰囲気を醸し出していた。白木模様をふんだんに
使い、壁やテーブルや椅子までが白木模様であった。おまけに焼肉の鉄板は、
ジンギスカーンの帽子風であり、箸は鉄製、器も鉄製、小皿から大皿まで銀色
をしていた。箸と皿が接触すると歯が浮くような錯覚に陥るのが朝鮮料理で
あると思っている俺の先入観が食欲にブレーキをかける。それが俺の朝鮮
料理の記憶である。チマチョゴリ嬢が手際よく料理を運ぶ間に、俺は急斜面の
窓から東シナ海の水平線を眺めた。ぎらぎらの太陽、はてしない青空、
水平線が見える海、商船と漁船が同居する湾、目を海岸線に移すと
打ち寄せる波、白く輝く白浜に幾多の木の残骸、一寸目を移すと、白筋の
波がリズム良く遠方まで打ち寄せていた。「カチャン」の音で我に返った。
テーブルには朝鮮料理が揃っていた。
 食事の内容は次回。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月10日火曜日

照沼重輝の中国彷徨(青島ホテル)・・・36

2016.5.10火 雨 午前5:44
 青島の飛行場上空は青空で太陽が輝いていた。機は青空から一気に滑走
路に降りた。機内アナウンスが終わると扉が開いて機外に出られた。立派な
飛行場であった。俺は近代的空港ビルと滑走路周辺の最新器具を見ながら
歩いてビルに入った。手荷物を受取り、国内便なので簡単に外に出られた。
  待ち受けていたのは、ホテルの客引きとタクシーの運転士であった。ホテル
は予約をしていないので、不安があったが5つ星の立派なホテルを選んだ。
宿泊料金は約15,000円、高いと思ったがそこに決めた。景色が良いらしい
ことを盛んに言うのであった。ホテルの近くに青島ビールの本社があるらしい。
それに毛沢東の専用海岸も近くにあるらしい。青島は鄙びた町かと思ったら
ずいぶん近代的で社会資本が充実した町らしい。今夜は冷えた青島ビールで
一杯やろうと決めながら、タクシーに乗ってホテルに着いた。多少驚いた、
15,000円のホテルとは思えない立派なホテルに着いた。ロビーのあらゆる
金具が金色で染まっている。おまけにボーイの帽子から足元まで金色で覆わ
れている。フロントの受付嬢が「どうだ、驚いただろう」という目線を俺に送って
きた。俺はそのようなホテルの心理が読めるので、経営努力しているなと
いう感じ方をしてしまった。ロビーの一番良い場所は朝鮮焼肉レストランで
ある。そうか、この辺は朝鮮族が多いのかなと思えた。昼間から開いている
レストランのドア嬢はチマチョゴリを着けてニコニコ目線を送ってきた。今夜
来てくださいの合図と思ったので、目線を外しフロントで受付をした。フロント
で海際の部屋を注文し、鍵を貰い、ボーイの案内で上階の部屋に入った。
大きな窓のカーテンを開けたら、一気に大海が目に入ってきた。
 海面がキラキラ輝き、波穏やかで、遠くに漁船が忙しく動き、漁船の音と
太陽の光のコントラストが平和的に耳や目に入ってきた。瞬間、今夜の
食事を楽しくする方法を考えた。
 次回は朝鮮焼肉と朝鮮風カラオケ店の夜を記します。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月9日月曜日

照沼重輝の中国彷徨(青島へ)・・・35

2016.5.9月 曇 午前6:53
 連休は忙しかった、手始めに自宅用地の一部をユンボを使って整地、穴を
掘ってガラクタを埋め、裏畑で不用品を火葬、ゴルフに親類と遊び、竹山で
タケノコ退治、トレーニングで3kmを三度彷徨、午後は乗馬場に遊び、夜は
親戚と会食、その間に会社の事務所へ数回ほど行って忘れ事を解決した。
 誠に連休は俺の諸事解決にとって付けたような休みになって40年経った。
忘れたが、いつの頃からそうなったのだろうと考え、キーを打っているのだ。
 早く、本題に移りたいが青島のことを思い出せない。それでも、記憶を呼び
戻すと、青島の親戚の水産工場と五つ星ホテルのレストラン、郊外の焼肉
店等を思い出す。青島の毛沢東の別荘や青島ビールも思い出してきた。
明日はそれを記すことになります。
          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年5月4日水曜日

照沼重輝の中国彷徨記(煙台の興奮)・・・34

2016.5.4水 雨 午前5:50
 今日はゴルフに出かけなくてはならないが雨が降っているので落胆中。
俺は煙台で驚いたのは、日本の竜宮城伝説がご当地にもあったことである。
浜辺を散歩していたら、竜宮城を説明した看板が立っていたので、日本の
伝説のことかなと思い、看板をよくよく眺めてみたら、何と日本と同じ内容の
竜宮城のことであった。俺は更にジーッと漢字を読んでみたら、亀に導かれ
海に行った少年が、海で数年間を暮らし、岡に戻って御爺さんになってしま
った内容であった。思わず、「日本と同じーだ」と声を出したら、周りの中国人
が俺をシゲシゲを見始まったので、俺は怪しげな中国語で「これは中国の
話」かと尋ねると、彼はそうだと言う。あれ、この話は遠い昔に日本に輸入
されたものかと思った。思えば、蘇州に旅行をした時にも同じ経験をした
ことを思い出した。それは、花咲爺の話であり、公園に看板が立っていたこと
を思い出したのである。俺が文学関係の研究者ならば、面白い現地の伝説
と遭遇し、物凄い興奮か感銘を受けられたろうと思えたが、俺はただの大陸
旅人である。しかし、旅の興奮の一場面ではあった。
           アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝