2016年1月31日日曜日

照沼重輝の中国彷徨(食品市場へ)・・・12

2016.1.31日 快晴 午前8:15
 そこは人混み、大賑わい、雑踏、坩堝、めちゃくちゃで床は水浸しで空気は野菜や魚
で生臭く、正に人が生きるための食物を手に入れる場所であった。俺は前に進んで
完全に市場の中に入った。農夫が売るために大声を出して何とか言っているが、俺
には分からない。野菜売り場から覗いていく。日本の野菜とほぼ同じであるが、どこ
か違う感じである。長ーいネギ、形はどうでも良いトマト、ジャガイモやニンニクは同じ
形をしていた。特に農夫の売り場は韮の匂いが充満していた。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年1月28日木曜日

照沼重輝の中国彷徨(何かと出会える)・・・11

2016.1.28木 快晴 午前8:00
 俺はふらふらと上海の町に出た。花園飯店を出て左に曲がった。何と日立物流の上海
支店が左側に目に入ったが、賑やかな右方向に歩いた。「夜の上海」という中華料理店を
右に見て歩いた。錦江飯店というホテルが見えた。後で分かったことだが、そのホテルは
毛沢東の別荘でもあった。厳めしい服を着たホテルのゲートマンが立っていた。毛沢東が
どのような別荘で過ごしていたかを見たかったが入らないで真っ直ぐ進んだ。人が溢れて
町を歩いている。小さな商店街が表れてきたので、その町を更に進んだ。電気器具店や
何かの小さな部品屋があった。中国の国ではまだまだ家財を修理しながら暮らしている
時世なんだと理解をした。揚げパン屋、餃子の皮だけ売っている店、ネギだけ入っている
麺店、暇な店の店員は顎を両手を支えて通りを眺めている。人混みをかき分けるように
して前に進んだ。向こうから乞食が丼を持って進んできた。その丼の中を見ると日本円で
10円にならないほどの金が入っていた。乞食と目を合わせないでやり過ごし、前に進ん
だ。近村の農夫が天秤棒の先に鳥を十匹以上ぶら下げて歩いてきた。日本の鳥と同じ色
であった。その農夫は何処まで行くのかついて行こうと考え、気づかれないような距離を
保ち、農夫の後からついて行った。どうやら市場に行くようである。俺はワクワクしてきた。
中国庶民の胃袋を満たす市場に行けると思ったら、俺の力はどんどん増加していった。
 いやー・・・・・、なんだこの賑わいは・・・・・。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年1月26日火曜日

照沼重輝の中国彷徨(上海の朝)・・・10

2016.1.26火 午前6:00
 上海のホテルで朝早くクラクションが煩くて目が覚めた。まるでクラクションコンクールの
ようであった。高層の窓から下を見ると、ドイツのワーゲン車が狭いストリートに並んでいる。
車の色はあずき色一色であり、通称カブト虫から一寸進化したようなワーゲン車である。
 ゆったりの中国と思ったが、行きかう車や自転車は日本以上のスピード感があった。
俺は思わず現実へと戻ってしまった時、朝の空腹感も感じてしまったので、朝食の場に行こ
うと考え身支度準備にかかった。歯を磨き、顔を洗い、髭を剃り、昨夜からの下着を取り換え
朝食室に向かった。そこはヨーロッパ調の部屋であった。何でもこの建物はフランス商工会
議所会館を改造してホテルにしたという立派な建物である。朝食室で働いているスタッフは
超一級の身だしなみとマナーを身に着けているように思えた。
 バイキング形式であったので出来るだけ腹に詰め込んだ。何故なら、その当時は中国の
外食は営業時間内に食べないと夕食まで食べ物にあり付けないという環境であった。
まるでフランスの超一級のホテルのようで、食べ物は何でも揃っていた。腹いっぱい詰め込
んだので楊枝を銜えて外に出た。恭しくスタッフの最敬礼で姿勢正しく外に出た。エレベー
ターに乗った途端に俺の姿勢はフニャフニャになるのであった。フニャフニャで部屋に戻り
食べ疲れをベッドの上で癒したのであった。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
ウイグル族の群れと交わる

2016年1月18日月曜日

照沼重輝の中国彷徨(上海の夕食)・・・9

2016.1.25火 晴れ 午前7:00
 松江からの帰り道で田舎の食堂に入り、日本の食堂とは違う環境で食べたので、
早く街に帰り、素晴らしいレストランで食事をしたくなった。泊まるホテルは日本のオータ
ニが管理し、出資者は野村証券である完璧なホテルである。ホテルの日本の居酒屋的な
レストランに入った。入り口に松茸や中国の珍味を売っていたので、覗いてみた。松茸は
南のタイ国境近くで取れたものらしかった。その当時の中国の土産は茶と民芸品が主で
あったので、非常に珍しかったその土産を眺めた。上海に二泊して台湾に向かう予定で
あったので持ち帰りは無理なので松茸の土産をあきらめた。しかし、日本に輸出できる
物が無いかを探した。今回の旅は小旅行であるが、俺はいつも癖でビジネスチャンスを
探してしまうのだ。その日の夕食は、松江の田舎で食べた料理からみると、雲泥の差の
値段と食器であったが、味はそんなに変わらなかった。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 

2016年1月16日土曜日

照沼重輝の中国彷徨(松江の公園)・・・8

2016.1.16土 天気不明 午前5:16
 水戸弁で・・・俺は早朝散歩に出たくてうづうづしながら、その真っ暗闇を時々覗く。
車はホテルの黒塗りハイヤーで松江に向かった。松江の公園は整備中であったが、
綺麗になっていたので中に入ってみた。入り口で入場料を払い、公園内の道に沿って
奥に歩いた。社らしきものがあったので中を眺めた。思わぬものを目にしたので、社の
中に入り、それをしげしげと眺めたら、何とそれは水戸光圀公の若き頃の画像であった。
昔の本で読んだが、水戸光圀公が中国の亡命学者の朱舜水を水戸藩の指導学者と
して迎え入れた時代があったようだ。俺は水戸で働いているので、時おり朱舜水の
ことが話題になり、耳にしていたので知っていた。
 しかし、中国内では朱舜水はそれほど有名ではなかった。出会った知識的中国人に
彼の話をしてみてもチンプンカンプンであった。そのような時は、漢詩の寒山寺を紙に
書いてみると、中国人は必ず親指を立てて喜んでくれた。さて、社の中には売店が
あり、中国的な何かを売っていた。覗くと扇子や筆類や記念切手、それに絵葉書など
を売っていた。売り子が退屈そうに、売り物の上に両手を被せて楽な体形で私を
眺めていた。その彼女に笑顔で近づき臨時に教わった「ニーハオー」と挨拶をした。
その彼女は発音の悪さに驚いたのか、それとも外国人風の俺に驚いたのか、分から
ないが、複雑な表情を帰ってきた。俺は目をそらさず、彼女をジーッと見て「ウオー
シーリーペンレン」と名乗ったら、彼女は頷いてくれた。服装を観察すると、日本の
昭和30年代の服装をしていた。俺は更に光圀公の画像を眺めながら、周囲の観察を
した。この社は100年近く立ち続けるているような古めかしさを持っていた。色々な
中国の歴史の立会人でもあるのだなとふと思った。俺も更に中国の歴史に触れて
みたい欲が出てきてしまった。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
寧波の港・昔の旅仕度と思われる像





2016年1月14日木曜日

照沼重輝の中国彷徨(食堂の裏舞台)・・・7

2016.1.14木 午前7:00
 俺はテーブールを1人抜け出して食堂の裏側に回った。敷地が糠っているので飛び
跳ねるようにして回った。裏側には調理師や若い女給たちが働いていた。調理室の床
はドロドロで調理台の上は食材料が乱雑に置かれていた。調理師は調理帽子を被っ
ている者もいれば被っていないものもいた。それから調理室が一杯で調理場所がない
ので、土の上に石を置いてその上に調理板を載せて調理をしている若い女子がいたの
で、覗き込んでみたらドジョウをハサミで裂いているのであった。ギョギョギョーである。
普通はドジョウを裂く時の調理刃物は包丁類と思っていたが、中国では調理しにくい
食材はハサミで調理するのかな思い、ところ変われば品変わるのなかと思ったが、
どうやら違うようであった。つまり人手不足を食堂勤務見習いの子供のような女子に
ドジョウを裂かせていたのである。見れば中学生のような子供である。忙しいので調理
見習いを兼ねて、食堂のイロハを教えているのであった。改めて子供の服装を見てみた
ら、髪にリボン、素足に安物のサンダル、服装は親に買ってもらったような簡素な服で
鼻をすすりながらの作業をしていた。
  俺はその現場からソーッと退却をした。理由は、どのような国やどのような職場でも
他人に見せたくない場面はあるだろうからと思ったからである。食堂の経営者や従業員
に何らかの影響を及ぼしてしまってたらすまないと思ったからである。それは1991年
の初夏に揚子江沿いを旅行している時の出来事でした。
西域の雰囲気の城塞
 

2016年1月10日日曜日

照沼重輝の中国彷徨(田舎の食堂)・・・6

2016.1.10日 快晴 午前7:49
 田舎の食堂で昼食をとった。他の客のテーブルには大🍚、大皿、大椀等の食器に白飯を
はじめ野菜や肉が大盛りになっていた。友人はいち早く円卓テーブルを占拠し、何やらウエ
ートレスに早口で注文をしていた。ボウルに白飯が大盛り、大皿に煮魚が数匹、スープは
大🍚、お新香類は中皿に大盛りといういで立ちで円卓テーブルに運ばれてきた。これらの
食べ物がテーブルにのった途端、蠅の数十匹の空襲を受けたのである。白飯の山が黒く
なるほど集ったので、友人は白飯の山の中から、かまくら掘りで私に毒されていない白飯
をよそってくれた。箸はテーブルの上に散らばっておかれていた。その橋をテイシュで
きれいに拭き、更に、茶を入れるコップまでをきれいに拭く作業を終えてからでないと、
その当時の中国の食堂では、食べられなかったのである。味はどうかというと、幸い
俺はどんな場所でも場面でも食欲は減退しない性格であるので、美味しかったと言える。
  俺と友人は食を満たす作業を黙々と続けた。黙々となぜ続けたかというと、左手を休め
ると蠅の空襲を受けて、見えない黴菌を蠅につけられてしまうからである。そんなわけで
食事中の楽しい話どころでなかったのである。左手で蠅を追い、右手で口に食べ物を
運び、目は食べ物に集る蠅を威圧する食べ方となってしまった。それでも希少価値の
食堂の経験が面白かった。次は、食堂の裏舞台を覗きに行った話を記します。この
食堂は上海と松江の途中にありました。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
豚足料理・・・足が強くなるかな・・・。

2016年1月8日金曜日

照沼重輝の中国彷徨(蠅の黒山)・・・5

2016.1.8金 晴 午前7:47
 水戸弁で・・・朝風呂が気持ちいい、でも、今日明日でそれも終わり、家は改修中だ。
友人に促されて黒い屋根と壁の大衆大食堂に入った。農村地帯での出来事であった。
農民や工場労働者が所狭しと窓口に並んだり、テーブルには黒山のようについていた。
 骨のついた魚や同じく骨のついた肉が大皿に盛ってあり、スープは大🍚に入っている、
御新香類は大皿にあり、ご飯は大🍚に大盛りで入っていた。ふと昔の北京での政府
高官との円卓テーブルでの話を思い出した。その話というのは1987年当時の訪中団
で北京に行った時、政府高官は「今や、我が国は衣食住のうち、居と食は間に合うよう
になった、これからは住を満たすようにしなければならない」と我々に説明をした。
 円卓テーブルには大盛りのおかず類と満杯のスープ類、同じく大盛りの白飯がある。
顔を茶碗に埋めるように食べてる労働者の顔は満足そうであった。そのようなわけで
北京での話を思い出したのである。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年1月6日水曜日

照沼重輝の中国彷徨(初の観光で松江へ)・・・4

2016.1.6木 晴 午前5:40
 高級ホテルで中国友人を待った。約束時間に来た彼は原子力物理学者であり、
典型的な生真面目青年であった。どこに行きたいかを聞かれたので、俺は水戸徳川の
黄門さんが水戸藩の為に迎えた「朱舜水」がいたことがある「松江」に行きたいと言った。
 ホテルでハイヤーをチャーターして松江に向かった。当時の上海近郊は、畑や田圃で
囲まれた農村の中の町であった。くねくね曲がった田圃の道を抜け、約2時間で松江に
ついた。昼食の時間であったが食堂が見当たらないので、そのまま車を進めた。午後1
時過ぎに案内者がそわそわし始まったが、理由が分からないでいた。どうやら当時の
食堂は午後2時で終わってしまうらしいので、旅行者が食事ができなかったら大変だと
考え始まったらしい。彼は慌て始まり、食堂があったら入ると言った。俺はOKと承諾を
した。入った食堂は現地の庶民的な食堂であった。日本で言えば超昔の田舎食堂で
ある。店の前には自転車や貨物車が多く泊まっていた。案内されて中に入ると、黒山
の人だかりである。黒山の人ばかりでなく、黒山の蠅も盛られたボールの白飯に集って
いた。俺はギョギョギョーとなった。
            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2016年1月3日日曜日

照沼重輝の中国彷徨(筆記会話)・・・3

2016.1.4月 晴 午前11:00
 水戸弁で・・・今年の正月は穏やかにのんびりできたような気がするな、窓から外の
参拝客の往来ばかり眺めていたっぺ、俺はそう感じた正月だった。今日から俺なりに
春の蠢動をすっぺ。
 イエスタデイに入った俺はママに話しかけたら、英語も日本語もダメなママだったが、
筆記会話はできた。俺はコーヒーを頼んで飲んだ後に、今は昼間だから酒は飲めないが
夜にまた来ると言って店を出た。それなりに化粧をしてオシャレをしていたので、中国文
化も発展しているのだろうと思った。夕食はホテルで済ませて、三人で夜遊びに出かけ
た。その当時の上海はネオンが少なく、中国の夜明け前の様相を帯びている町のよう
であった。イエスターデイに入ったら、店の主人とママがニコニコして我々を待っていた。
 互いに自己紹介をし合った後に、俺はカクテルのマテニーを頼み、友人達はビールを
頼んだ。筆記の会話は大変であり、相手は中国簡体字を書き、我々は昔の中国字を
書くものだから、真剣に文字を見たり、読解をしないと会話内容がとんでもない方に
いく恐れがあった。しかし、同じ漢字の国の人種同志なので会話の内容は大体は理解
ができた。ほどよく飲み、ほどよく会話をして帰途についたが、何となく味不足気味で
ある。更に、彼らともっと深く付き合いたい気持ちが残ってしまった。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 
  

照沼重輝の中国彷徨(第一歩の上海)・・・2

2016.1.3日 晴 午前8:00
 昨日はゴルフをやったが、腕が落ちていることが分かり愕然とした結果となった。夜は
大宴会となり、憂さ晴らしと元直しを四人でやりました。焼酎、一升瓶、缶ビール空き缶
が居間に転がりました。
 さて、上海に上陸した私は直ちに夕暮れから夜にかけての探訪に出かけた。ホテルを
思い出しましたので記しておきます。ホテルは日系の上海ガーデンホテルでした。全てが
洗練されているホテルでした。料金も高いが従業員の質は良好でした。とにかく、日本
国内にいる以上の環境ですから、俺の冒険心は満足できませんでした。友人たちは
それぞれの興味に従って、その場所に行きましたので、俺は1人で町の真っただ中に
足を伸ばしました。ホテルを出て直ぐに十字路がありましたので、その十字路を右に
回り、更に奥に進みました。小さな油条(油揚げパン)店や麺専門店(種類は無い)、
昔はフランス租界地なので洒落たアパートが多く立っています。そのアパートの一番
見晴らしの良い場所にCOFFEE WINEと書かれた窓を発見したので、俺はその店に
躊躇なく向かいました。看板を見ると「YESTERDAY」とありました。
 チリン、チリンとドアを開けた途端に鈴が鳴り、店の奥から「ファイン、ファイン」という
鈴虫の声のような八頭身の上海娘が立っていました。俺は「ママ?」と声をかけたら
頷いてくれました。そこは「イエスターデイ」と言い,ママとご主人が経営を始めたばかり
の上海の夜明けのような雰囲気を持った店でした。俺の中国彷徨はこの店から始まり
ました。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
西安鼓楼の絵から

2016年1月1日金曜日

照沼重輝の中国彷徨(最初の上陸地)・・・1

2016.1.1金 曇り 午前6:17
 俺は中国大陸には200回以上の訪問経験がある。最初の上陸年度は1987年と記憶
しているが、それは日中友好訪問団で政治的目的が大半の訪中であった。しかし、中国
要人と円卓テーブルを囲んでの食事は後々に大変有利な経験となった。その旅行は、
北京~上海を周りながら、その地区の要人と友好を深める旅であったが、中国に更に
深くは入らない視察であった。その後、俺の住んでいる東海村に上海から三余名の留学
生が来ていて、その留学生から支援を求める連絡が日中友好協会へ入ったので、俺が
その支援役をやることになった。留学生は東京大学の原子力関係の研究所にいた。
俺から電話をして訪ねて行った。留学生全員が核物質利用の研究をしているようで
あった。その研究所ではくだけた話もできないので、外の食事場所に誘ったり、名所
旧跡を案内をしたりして友好を深めた。数年経ち留学生が帰国をしたが、そのうちの
1人から御礼状と上海への招待状がきたのが、俺が中国へ入り込んでいくきっかけ
である。
  当時の上海飛行場は上海の西にある虹橋飛行場であった。降り立つとまるでアジア
の奥まった飛行場のようで質素そのものの飛行場に見えた。その降り立った年度は
1901年の夏だったと記憶をしている。医師、貴金属商、俺とでバカボン三兄弟の
ようないで立ちで、虹橋飛行場からY留学生(要人なので名前を伏す)のお迎えで市街
に入った。町並みは暗く空気も汚れていた。その夜はどこに泊まったかの記憶は無い。
人民服の人をやたらに多く見かけた。ネオンも少なく、侘しい町と感じた上海であった。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝