2014年9月30日火曜日

2014年までのアメリカ(ニューオリンズ)・・・187

2014.9.30  火 晴  午前6:30
   中国大陸紀行を7日間掲載をしていましたので、アメリカ紀行7日に戻ります。
キーウエストからダラスに向かった私は、ニューオリンズの町を気ままに覘こうと進路を南西に定め、アクセルを踏み込んだ。湿地平原の中を車は進んだ。途中の川の色は真茶色で、鰐が出そうな雰囲気である。半日ほど車を走らせたところ、地平線の彼方に楼閣が見えてきた。友よ、あれがニューオリンズだ、とハンドルに言い聞かせた。数年前のハリケーンの跡が痛々しく残っている郊外を過ぎると、音楽だらけの街の中に入った。どこからともなく聞こえる全ての音が、ニューオリンズのジャズ音楽であった。駐車場はメーンストリートの後ろになんぼでもあった。但し、カード決済
なので苦労したが、駐車場の係員に決済をやって貰い、歩いてメーンストリートに向かった。
   そこはジャズのるつぼ、楽器が蠢く、アフリカ系アメリカ人と中南米系アメリカ人が圧倒的に多く、
アジア人は見かけなかった。300mくらいの距離の蝉噪地帯に入った。警官が10mの幅で立っていた。電気銃と拳銃を持っている警官であった。いかに危険地帯か一目瞭然で、ぼやーと歩いていると、連れ込まれることがある路である。
                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月27日土曜日

2014年までの中国(上海様相)・・・186

2014.9.27土  晴れ 午前7:00
    杭州から急いで上海に戻った。急ぐ理由は、何度も何度も通った高速道であったからである。いつもの道路は退屈を生む道路となっていた。前方左右、上下目新しいものは全て無くなっていた。
上海の銀河飯店に宿を取ろうと思ったら、そのホテルは無くなっていた。無くなったと言うより、
用途替えをしていたのである。ホテルから貸し事務所ビルになっていた。このように上海の町は
凄まじく変わっているのである。しょうがないので、ロイヤルトンホテルに宿を変えたがそのホテルの、隣のスーパーも無くなっていたのである。上海は全ての家賃が沸騰しているので、採算が合わなくなっていて、退去したらしい。今の上海は古いものが去り、新しいものが生まれているのである。全ての新しいものが芽を出したり、穂が出たりしている町となっていた。
    夜、上海で最も流行っている日本料理店に行った。アジア人の溜まり場になっていた。中国、日本、韓国人の男女が、日本料理を食べて日本酒の徳利を傾けていた。但し、日本酒は中国内で作られた日本酒であった。大繁盛をしているこの店の主は、元日本への留学生とのことであった。
   私の老朋友の中国人達は、今や上海の富裕層になり、高級住宅に住み、高級車を乗り廻し、
肩で風を切って、街中を徘徊している身分になった。そして、私の貿易を前後左右からガードをしていてくれるようになった。まさしく、人育てをしたことになって、嬉しく思えます。次回から、アメリに戻ります。続きは、ニューオリンズの夜からです。
                                          アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月26日金曜日

2014年までの中国(杭州から上海へ)・・・185

2014.9.26金  曇天 午前7:00
   杭州から上海まで約200kmと思う。時間で2時間30分かかる。途中に皮の町や桐の町等がある。特に面白い町等は見当たらないが、南湖という共産党が組織を作った時の場所となった町が
ある。そこを訪問して、その場所を見学した経験がありますが、質素に写真などが展示されていただけでした。この杭州と上海間間のルートはまっしぐらに上海に戻るだけの平凡な道ですから、
途中でどこかに寄った経験は二三度しかありません。その寄った町は、皮の産地の町くらいで
した。そういうことで特筆できる出来事は少なく、本文を終わりにします。明日は日本に戻る直前の上海の様相を掲載します。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
  

2014年9月23日火曜日

2014年までの中国(杭州の郁達夫)・・・184

2014.9.24火 晴れ 午前6:00
   仕事を終えて、郁達夫文人の家に行った。何でも郁達夫が杭州一の美人を娶り、新居を自分の設計で作ったものらしい。確かに、東京大学に留学していたので、屋根だけしか見えなかったが、扉の隙間から除くと日本的な家であった。郁達夫は浙江省の人で、兄と一緒に東京大学に留学し、文人になった人である。魯迅とは日本のどかで一緒だったらしい。その家を見て回ったが、
中に入れるようには、なっていなかったので、あきらめてそこを辞した。
    杭州の町はまだ夏が去っていないようで、空にはギラギラの太陽と入道雲が居座っていました。
                                                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月22日月曜日

2014年までの中国(無錫から杭州に陸路で)・・・183

2014.9.22月 快晴  午前8:45
  無錫で工場の接待を受けて、その町に泊まってしまった。田舎料理であったが美味しかったので痛飲をした。田舎社長の飲み方は男らしく、グングンいった。私も同じ調子でグングン飲んだ。そのおかげで、朝は少々辛かった。
 無錫からハイウエーで300kmを3時間で走り、杭州に着いた。杭州では郁君の従弟と2年ぶりに
食事をした。彼ら夫婦はヨーロッパ旅行から帰ったばかりで、その話で花が咲いた。その話の中で夫君が妻に現地で「逃げようか」と囁いだらしい。彼女は「言葉が分からない、やめよう」と言ったらしい。杭州料理のなかで、日本のたくあんに似た漬物がおいしく、口にほおり込みバリバリと食べた。私の腹心の郁君の祖先に郁達夫という中国の文豪がいるので、その話に及んだ。彼の旧宅
が杭州に記念館として保存されているとのことである。訪れてみようかと、ふと考えた。宴会が終わり、外に出ると杭州は暑い夜がまだ続いていた。
                                       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月20日土曜日

2014年までの中国(厦門から無錫へ)・・・182

2014.9.20土 曇り 午前7:00
  無錫を出た私は空路で無錫に向かった。1時間遅れた飛行機は、スムーズに青空の領域に入
り、1時間半の空の旅であるが昼食が出た。簡単弁当であり、腹がふさげれば良いという代物である。
  時間無く、ここで終わります。
                                                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月19日金曜日

2014年までの中国(厦門の石工場と道教院)・・・181

2014.9.19金  快晴  午前6:30
  朝迎えに来た顔女史の車で石材工場に行った。行ったところ、あんなに立派だった工場が半壊している。思わず、聞くと、政府が高速道路のために取り上げたと言う。補償額は数億円を貰ったとのことである。移設中の工場は稼働をしていないので、系列会社で受注をこなしていると言う。
半壊の工場の事務所で制作打ち合わせをした後に、隣の道教院で制作品のヒントを探しに行った。私の勘がぴったり当たった。中国の道教でも安産の神に犬が使われていた。お賽銭箱の4本の支柱の直下に犬が彫られていた。これを取り入れた産品を作ろうと決定をした。
   打ち合わせ後の昼食は、漁村又は農村食堂を所望した。漁村食堂に行って、地場ものを使った
海鮮料理に食いついたが、たいしたことは無かった。そこで、夕食は顔女史の夫君を誘い、漁村
の経営するドライブインみたいな大型食堂に行った。ここでの海鮮料理もたいしたことは無かった。
今の中国の食は、庶民はまだ質より量の食事が優位となっていた。
   彼夫婦は、私を厦門を逆から見る場所に連れて行ってくれた。来るたびに南シナ海側から見ていたが、今回は後ろから厦門を見ることができた。結果、厦門の全体像が初めて理解できました。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

  

2014年9月18日木曜日

2014年までの中国(厦門に行った)・・・180

2014.9.18木 曇天 午後7:40
  9月13日に茨城を出て、上海・・・空路で厦門・・・空路で無錫・・・車で杭州・・・車で桐郷・・・車で上海・・・空路で茨城に戻った。中国内だけで約3000kmを移動したことになる。
    今日は厦門の出来事を記します。夜10:30分に厦門に着きました。石材会社の顔女史とは5
年ぶりの再会です。お互い変わりはありませんね、と挨拶を受けた。私も返したが、それ以上の
ジョークは逃してしまいました。空港外に出ると、蒸し暑く、椰子の木を見るだけでも、正に南国の国であった。ホテルに入れたのは午後11時ごろでした。四つ星ホテルでしたが、値段と部屋の雰囲気はマーマーでした。腹が空いていたので、外に食べに出てみましたが、店が無く、やっとありつけたのは、閉店間際の店でした。腹が空いていると何でもおいしいというのは、本当の話でした。
厦門での空腹感が、後後に中国移同時に色々な利益にありつけました。
                                      アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月13日土曜日

2014年までのアメリカ(中国上海から厦門へ)・・・179

2014.9.13土 曇り 午前5:40
臨時的にアメリカから中国に移ります。理由は、今日、中国国内に入るからです。
  今は日本の東海村にいますが、この後13時20分の飛行機で上海に向かい、午後19:10の飛行機で厦門にたちます。厦門では石輸入の商談を行います。そして、厦門から無錫に飛行機で移動をします。無錫では太陽光機材の輸入商談をします。後に上海に移り、上海のロータリークラブでメーキャップをして、上海在住のビジネスマンと交遊をします。途中ですが、時間が追ってるので一旦終わりにします。
                                        アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月12日金曜日

2014年のアメリカ(ニューオリンズの街角音楽)・・・177

2014.9.12金  晴れ  午前6:40
   オーランドを出てひたすらニューオリンズに走った。ミシシピー川を越えるとニューオリンズである。湿地の平原をしばらく走り、鰐が出てきそうな湿地も走った。混濁の水を見ながら走ると、遠くに楼閣が見えてきた。ジャズで有名なニューオリンズである。ジャズが好きな人には、憧れの町であるが、私は音額が駄目だから、音楽よりは交会う人種が躍動する町を見たいのである。数年前のハリケーンで大被害を受けた爪痕が町のあちこちに見受けられた。町の中心地に高速道路から
入った。私はアメリカに来て初めての経験でした。それは町行く人の顔が殆ど有色であった。白系は殆ど見受けなかった。明るい南国特有の音楽が町中に流れていた。人々の動きもリズミカル
でした。車を駐車場に入れて町のど真ん中に出た。中心地は至る所に空き地があった。それは
駐車場になっているから、便利な町でした。早くも学生ジャズの楽団に出くわした。こういう風景は
音楽好きにはたまらないだろうな考えた。男も女もカラフルな服を着て、アメリカ南部文化を表現している。私は人の流れに沿って、町一番の夜の繁華街に入っていったのである。明日はその夜の
繁華街を記します。但し、明日は中国出張ですから、厦門の町を記すかもしれません。
                                            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                               クリントン大統領と同席をした

2014年9月10日水曜日

2014年からのアメリカ(キーウエストからデズニーへ)・・・176

2014.9.11木  曇り 午前5:40
   キーウエストを周遊し、ニューオリンズに向かおうと思ったが、気持ちを入れ替えて、フロリダ半島のオーランドに向かった。理由は巨大な娯楽施設があるからであった。デズニーランドやユニバーサルの娯楽場、それに独自の鰐園とかサファリパークがあり、私はそれらのビジネス運営に興味
を持っています。巨額な資本を集めて運営し、巨額な利益をあげて、投資家に配当をする。このような管理システムを築いたアメリカ人の優秀性に興味を持ち続けていましたので、是非とも、見てやろうと思っていたのです。最近売り出し中であるハリポッターのユニバーサルに向かいました。
一人5千円くらいの入場券を買って入り、中を見て歩きました。感想はデズニー的管理の方法の
ようでした。日本と違うのは、年配者が結構働いていました。思うに、その町の法律で一定の枠で
年長者を使うようになるのかもしれません。このような施設の管理と運営に興味があっただけ
ですから、二三時間で退去しました。ハリーポッターだけは並んで待って見ました。
    オーランドの町は観光地ですから、アメリカの南の夜昼は大変賑わっていました。
明日はオーランドからニューオリンズに往くを記します。
                                                アメリカ.中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年の中国(上海から南へ)・・・175

2014.9.10 水  曇り 午前6:30
  上海の中心から南を望むと、杭州湾、寧波、台州、温州がある。私が行った町は温州を除き、全部行きました。寧波は道玄禅師が修行した天童寺があります。そのお寺には3度ほど行きました。
広大な寺の敷地に、日本では考えられないような施設があり、多数の僧が読経をしていました。
以外に、中国特有の煌びやかな施設でなく、落ち着いた雰囲気です。当時の名残は無いようで
したが、寺に続く松並木にその名残を見つけました。砂地のような土でしたが、その松は何代目か
のように小松並木でした。天童寺を出てある港に向かいました。道玄僧が数日も船の中に閉じ込められた港に立ちました。そこに行くまでは大変でした。案内の中国人も分からないような所でしたが、一人の同行者が司馬遼太郎の本を参考に見つけたのです。全員が驚き、びっくりです。
そのようなヒントを中国で見つけるとは、考えれませんした。後に考えると、その人は日本の弁護士の先生です。やっぱり、すごいの感でした。南の寧波に行った時を記しました。
明日からはアメリカに戻ります。
                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                      道玄禅師が船を着けた港

2014年9月9日火曜日

2014年までの中国(上海から西へ)・・・174

2014.9.9火 曇り 午前7:00
  上海の西に蘇州、南京、西安があります。もともと、揚子江沿いに発展したような町と思います。
私は揚子江沿いの町に通いましたので、行ったところの憶えている町を列挙してみます。
    昆山市、蘇州市、無錫市、常熱市、揚州市、南京市、西安市ですが、西安を除いた田の町は、
全部仕事で行きました。1991年から今も現実に通っている町です。各市の人口は100万人から
700万人の人口がありますので、日本の賑やかさの比でありません。思い出し順に町の様相を
記します。昆山は私が20年前にM&Aを成功させた町、世界中の企業が進出しています。外国人が3000人住んでいるとのことです。無錫は私が太陽光機材を輸入する町、無錫旅情の歌で有名です。1500年代に日本の倭寇が忽然と消えた歴史があります。現地に同化したのでしょうか。
常熱市は油圧ホースを日系企業に売りに行きました。揚州市は鑑真和尚のお寺があります。
南京の帰り道に寄りました。骨董屋が軒を並べていました。南京は日中友好協会の公的訪問で
行ったり、ビジネスチャンスを求めて行きもしました。蒋介石の家や孫文の陵があります。
黄河文明に対抗するように、揚子江文明をあるんでないかと思うほど、揚子江沿いは発展した町が多かったです。
                                                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝 

2014年9月8日月曜日

2014年までの中国(上海から宝山方面へ)・・・173

2014.9.8 月 快晴  午前6:45
    上海の東に宝山、その奥に南通、更に東シナ海がある。私は宝山には製鉄所があるので商談に行った経験があります。その奥の南通市にもいきました。南通市は経済の発展する間際に、友人に案内をしてもらって行きました。宝山は大地の子の製鉄所があるので有名ですから、その地名は誰でも分かっていると思います。三菱重工の社員と商談をしたことを思い出しました。南通市
は、揚子江を渡らないと行けなかったので、フェリーで揚子江を渡り行きました。帰りに、田舎の民家が経営する食堂に寄り、料理を頼み、その家の庭で後ろに回り、何気なく井戸に行くと、その家の娘さんが田ウナギをハサミで解剖していました。鋏を見ると、真っ赤に錆びていました。悪いもの見てしまったが、食欲は落ちることなく、皆で美味しく食べました。
   その当時と言うのは。1991年でした。思い出は揚子江は黄色い河で濁流がうねっていました。
明日は西の思い出を記します。
                                                               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月7日日曜日

2014年までの中国(南京路から東西南北を望む)・・・172

2014.9.7日 大雨 午前6:40
   上海の有名通りの南京路から東西南北を望んでみます。東方面には大地の子で有名な製鉄
所の宝山があります。その奥には南通市ですが、更に遠くの東シナ海の奥に日本があります。日本までは約2000kmくらいでしょう。南方面は杭州湾ですが、湾を渡ると寧波市や台州市があり、海の向こうには台湾があり、経済活動がとても活発な南方面です。台湾まで約1000kmと思われます。西方面には蘇州市、その奥に南京市があります。更に奥には西域があり、シルクロードはその奥ですが、私は行ったことはありません。シルクロードの入口の西安までは約1200kmと思います。北の方面は北京があります。その距離は約1000kmくらいと思います。各距離数を図ったわけでありませんが、飛行機の飛行時間で計算をしてみました。このように大陸は、日本人に考えられない距離感があります。私は中国の東西南北の全部に上海から出張していました。とても良い
思い出が残っています。今月の13日に仕事で中国に出ますが、行くところは茨城・・・上海・・・無錫・・・アモイ・・・上海・・・茨城と廻ってきます。何か面白いブログネタ仕入れてきます。
   明日は東に行った経験談を記します。
                                       アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月6日土曜日

2914年までの中国(上海人との絆)・・・171

2014.9.6 土 曇り 午前 6:30
  上海人は待ち時間に几帳面でなかった。20年前に仕事で部下と待ち合わせをしたら、1時間遅れてきた。交通機関の遅れで、俺のせいでないよと、平然としている。私は呆れたが、顔に出さずに、そのようなことがあるなら、1時間早く出るべきだと部下に行った。部下が言う「そんなことしていたら一生の間で、相当な時間のロストがある、時間は貴重なものだ」私は唖然とし、口をきけなかった。そんなことがあった後、今度はその部下と数人の友人で、国内の飛行機を使用する出張になった。待ち合わせ時間に15分遅れている、飛行機は待ってくれない、私は敢然と搭乗手続き口に向かった、身体検査が終わり待合室まで進み、座って寛いでいた。彼らは遅れて汗をかきながらやってきた。部下曰く、「なんで待っていない、日本人は気が短かい」とのたまわった。この会話は互いに信頼感があるから喧嘩にならないが、普通ならば、喧嘩になり、その場で関係が終わりになってしまう。私たちは無事に飛行に乗り、その出張では良い仕事が出来た。中国人との付き合いは、何でも言える関係を構築するのが一番かなと思う。今の日本と中国は何でも言える関係を築いている政治家は少ないから、問題の核心を掴めず、右往左往しているのかな?分からないね。明日は上海の東、日本の西の出来事を記します。
                                             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月5日金曜日

2014年までの中国(上海のあれこれ)・・・170

2014.9.5金 曇り 午後4:50
  上海人の気質について記してみます。良く言われるのが、北京人は東京人で上海人は大阪人
と言われます。本当の役人を見たければ北京に行け、本当の金持ちを見たければ上海に行けと
言われます。上海人の金に対する考えは、日本人も極めて勉強になります。どんな店でも安ければ、何処までも行き、高ければ親戚の店でも友人の店でも二度と行かない。但し、そこは中国で親戚値段と友人値段があるようです。この柔軟性ある考え方は、正に上海人と思います。安くて美味しい店は行列が出来ます。日本だと、もう一つの綺麗で人が入りますが、上海は違います。数十年も続いている行列が出来る店(ショウロンポウ)は正にそのようでした。火鍋の人気ある店も、何時間んも待たされますが、私は社員の有志に先に行って待ってて貰い、時間が来たら、そこに駆けつけて食べます。但し、その有志には小遣いを渡すようになりますので、値段は安くあがりません。
上海人は風と称すると滞在歴の長い日本人に言われたことを思い出しています。
    明日は、中国人の待ち時間について記します。
                                                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
   
 

2014年9月4日木曜日

2014年までの中国(上海の24時)・・・169

2014.9.4 木  曇天  午前6:00
   杭州湾を跨いで上海に入った私は、いつも定宿の銀河飯店に宿をとる。顔馴染みのカウンターの女性が微笑んでくれる。荷物を部屋において、カーテンを開けて28回階から下界をぼんやりと眺める。至福の時間である。下界は交通ラッシュとクラクションの海であるが、所々の緑の公園が
眩しい。暗闇が追ってくると、身だしなみを整え1階のフロアーに降りる。運転士の郁君が待ち受ける。直ちに外に出て、ビュイック黒型の車の後部に乗り込む。先ず、中華料理の美味しい「和記」
に行き、上海富裕層若手と食事をする。そこでの話題は、ビジネス話題が中心ですが、私への質問は、日本の政治経済の動向である。私は専門家でないが、実務家であるので大変参考になるのだという。そこで、さりげなく日本の不動産とM&Aの話題を投げる。私は若手経営者の日本への投資意欲を探るのだ。この地震前は意欲があったが、地震後は距離をおいて、日本への投資を
見ているようである。食事が終わると、気の合う富裕層若者と連れ立って、二三人でカラオケクラブに行く時が多いが、場が出来ない時は長年常連になってるスコッチクラブに赴く。その店は「イエスタデイー」という店である。ママと軽い話し相手になってくれる女性二三人がいるだけであるが。
日本のホテルオークラが経営する花園飯店から数分の所にあり、いつも世界の商社員が溜まっている。テーブル席4卓、カウンター7席の店であり、満員の時が多い。その理由は、安く飲めて、ママの長身と美人顔を拝めるからだろう。私はママの主人と長い20年以上の付き合いがあり、その彼の顔を立てて行くのである。この店の周りは日本の六本木である。眠らない町上海の代表的な
地区である。明日はこの店を中心に上海の夜を記していきます。
                                            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年9月3日水曜日

2014年までのアメリカ(アメリカの最南端キーウエストに)・・・168

2014.9.3水 晴  午前6:10
   キーウエストの町を表現するならば、ヘミングウエーの「老人と海」や「武器よさらば」と縁が深い
町、椰子の木が高くそびえて青空に届きそうな町、キューバーの匂いが漂ってくる町、美しいサンセットの町等数多であるが、何といっても、この一言に尽きるようです。それは「海原の町」では
ないでしょか。とにかく、最南端に行くまでは、海の上の一本道を走っているような、錯覚におそわれる感じがして、そこについて、後ろを振り返ると一本道が見えなくなる。帰れるのかなと錯覚を
起こします。海原に浮いている町ですが、道路は微かな岩礁の上に作られたのでしょう。波と
道路が一体化しているようです。ハリケーンの時などは、島人は避難道路がなくなり、大いに不安になるだろうと思います。
    さて、夕方の落日の瞬間を見るために最も最南端に行きました。世界で一番美しい夕日です。
既に観光客が大勢集まっていました。時間お金を持て余しているアメリカの富豪達が集まった感が
あります。夕陽を見る岸壁の周辺には、一見して豪華な別荘風なホテルが立っています。3階建ての部屋を貸し切った男女の白人達が酒を飲んで騒いでいます。
   夕日が差し掛かった海原を見ると、大型ヨットが西から南に航行中、夕日を追いかけているようです。そこに、小型クルザーが横切っていきました。夕日は中断から水平線に近付きいた。
その瞬間、観光客がどよめいた。太陽が消えてしまったと言ってるようでした。私も岸壁を後にしようと動き始めた瞬間、豪華別荘ホテルの三階の富豪たちが、「私たちが落日を最後に見ている」と
叫び、得意がっていました。私はそれを瞬間的に羨ましがっただけでした。暗くなりかけたキーウエストの一等地の最南端を後にし、値段が高い安モーテルに戻る北の道を探しました。お腹が空いてきたので、今夜は食料を買ってモーテルで食べようと思っています。明日からの一週間は中国の上海周辺を記します。
                                                    リカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                            アメリカ最南端の 落日の瞬間 

2014年9月2日火曜日

2014年までのアメリカ(キューバが近いキーウエストへ)・・・167

2014.9.2 火  晴 午前6:40
  フロリダは何も見ないで通過した。鰐がいそうなブッシュを過ぎると、突然に大海原が見えてきた。
これは写真を撮ろうと車を止めると、何と、まだキーウエストの入口辺りであったので、更に、車をとばした。2時間ほど走ると、遠くに蜃気楼のように海原に上に建物群が見えてきた。あれが、ヘミングウエイーが住んでいたキーウエストの町だ、と自分に言い聞かせ、疲労を回復させた。
   運転中の車の中から左右前方を見る。大型クルザー、、大中小のヨット、青空、ヤシの木、ハイビスカス、ブルーすぎる海水、豪華な別荘、周囲にマッチしたモーテル等、そこは仕事を忘れる南国
であった。途中のウォルマートにより、帽子と海水着やサンダルを買った。ついでに、食品売り場や
雑貨売り場を覘いて車に戻った。
    更に、先に車を進ませる。モーテル群が立ち並ぶ通りに出たので、部屋を取ろうとモーテルに入った。カウンターで料金を聞くと、ワンルーム・ワンベッドは2百ドルと言う。びっくりして、負けてくださいと頼む。150ドルまで下がった。キーウエストの町の最南端の名所から5㎞くらい離れた
所でこの料金ですから、もっと先に行くともっと高くなる。時間的に贅沢なアメリカ縦断をしているので、遠く離れたモーテルで我慢をすることにした。部屋は綺麗でベッドメークも満足できたモーテルであった。暗闇が追っていたので、嫌な予感を抱いて、夕食の買出しに出かけた。嫌な予感が
当たった夕食になった夜は明日記します。
                                                    アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                                   暗闇が追る

2014年9月1日月曜日

2014年までのアメリカ(フロリダを通過しキーウエスト)・・・166

2014.9.1月 雨 午前6:20
    フロリダに寄り、ビーチで遊ぶ時間は無かったので、真っすぐにキーウエストに向かった。フロリダの外環のような高速道路を過ぎると、やがて、湿地地帯のようなところを走るようになった。その湿地地帯が長く感じた。早く、青空と青い海原を見たくているからである。2時間程走ると、ポツリ
ポツリとブッシュの合間から青い海が見えてきた。キーウエストはフロリダから300kmの先にある
岩礁の島である。ヘミングウエーが「武器をさらば」を書いた場所であり「老人と海」のモデルとなった地である。キューバまで数百kmtの地点であり、南米の入口のような所というと分かりやすい。
   椰子の木、ハイビスカス、真っ青の海が道路の左右に広がってきた。所々に見える小さなハーバーには、無数の大小のヨットやクルーザーが係留している。目を遠くにやると、水平線の彼方にもレジャー船がうごめいていた。キーウエストまであと100kmほどの地点まで来た。遠くの水平線の先に一寸した高い建物が見えてきた。まるで海に浮かんでいるような建物群である。私は更に
アクセルを踏み込んだ。
   明日はアメリカの最南端のキーウエストの様相を記します。
                                            アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                                                          キーウエストの夕日