2014年1月31日金曜日

1997年から2014年のアメリカ(サンフランシスコの夜)・・・55

2014.1.31金 快晴 午前7:10
 サンフランシスコには5度の滞在歴があります。ゴールデンゲートにも5度ほど上がりました。SFO空港はアジア人の玄関口のようなもので、この町には中国系が多く住んでいるようです。私を
空港まで迎えに来た友人は、上海出身で40年前に香港経由でアメリカに渡った華僑です。なんでも最初は調理師をやっていて、奥さんはホテルの清掃員で働き、やがて中華料理店を開業して財を築き、60歳を過ぎてから不動産屋投資を手掛けてまたまた財を生んだ人です。上海時代はやんちゃで、ハイスクールのリーダーであったが文革前後に上海を抜けだしたとのことです。その彼の案内するサンランシスコの夜は、濃密でスリルがあり、胸をドキドキしながら彼の背について回りました。
 先ず、案内をされたのは高級レストランでした。世界の珍味をいただきながらの会話は、夢のようで楽しかったです。次の案内は、世界の人種が集う夜のクラブです。私の会話力が上級ならば、100%楽しい夜になったであろうと思い出します。身長170以上の世界の美女が待ち受けていました。私の身長は160ですから、相手方は子供が来たのかなと勘違いをして、チップの期待をあきらめたのか、私に対する接待態度は最悪でした。何人とでも言っているのか、時々、私の方を指さして、私の友人と話をしています。私はジャパニーズスマイルで礼を尽くすほかありませんでした。このような高級クラブで、私は何を出来るだろうかなと考えながら、酒を舐めるほかなかったです。
 一先ずの時間が過ぎて、華僑のベンツでホテルに戻りましたが、頭の中は先ほどのクラブの光景が浮かび、今度来るときは会話力と財力を増そうと決心をしましたが、凡人の悲しさか、その気はやがて薄れてしまい、今日に至っています。
 明日はサンフランシスコの日本人町で食べた鮨を掲載します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月28日火曜日

1997年から2014年のアメリカ(カルフォルニア・サクラメント)・・・54

2014.1.28火 快晴 午前7:00 朝日が覗く
 2013年2月2日にアメリカ旅にでた。成田発午前11:00の全日空の飛行機は、サンフランシスコ国際空港に2月1日の午前中にソフトランデングをした。サンフランシスコの華僑の友人が迎えにきた。サンフランシスコ空港の入国審査官は「目的と行き先は」と問うので、あらかじめ用意しておいたぶっきら棒英語で「sightseeing.hilton hotel」と答えると、入国許可サインをしてくれた。荷物を受け取り外にでた。白タクみたいな車が来て「where are you going」と聞いてきた。私は「I can not english」と答えると、スーッと行ってしまった。旅行鞄を尻にして、サンフランシスコ空港の玄関出口で万国共通のの浮浪者みたいに座って、華僑の友人を待つことにした。 しばらくして、華僑の乗る豪華なアメリカ車が横づけされた。大げさな握手を求め友人は、私を車の中に押し込め、荷物をトランクにほおり投げ、タイヤの音を出しながらサンフランシスコ空港を出発した。途中、車内で彼がいうには、カルフォルニア州の北はオレゴン州で東はネバダ州、南はアリゾナ州になっている。カルフォルニアの州はサクラメントでサンフランシスコから東に140kmのところにあり、特別な産業は何だろうという。昔は金鉱山があり賑わった時代は、西部開拓時代で今は静かな役人の町だとの説明であった。町内に入るまでに数か所のゴルフ場を見た。後にゴルフもできるなと楽しくなった。
 実はサンフランシスコは3回目であったが、華僑の友人には知らんふりをしていた。自分の町を自慢する彼の微笑ましい心を傷つけまいと思ったからである。この旅行では、サンフランシスコ~
デイビス~サクラメント~ロスパナス~サリナス~サンノゼ~オークランド~サンフランシスコへ戻る行程を計画していたので、レンタカーを借りて自由に回ろうと考えていたから、彼の案内はサンフランシスコだけにお願いをすることになった。明日はサンフランシスコの夜を掲載します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月27日月曜日

1997年から2014年のアメリカ(想い出の町について)・・・53

2014.1.27月 快晴 午前7:15
 今日より中国大陸からアメリカに戻ります。思い出しながら記しますが、最初のアメリカは①ニューヨーク周辺をレンタカーで彷徨っただけ、次はレンタカーで②ニューヨーク周辺に足を延ばせた。そして、次もレンタカーで③サンフランシスコからサンデイゴの往復、次もレンタカーで④ニューヨークからサンフランシスコ横断、⑤2年前もレンタカーでニューヨークからキーウエストに行き、ダラスまで昇った。次には、⑦レンタカーでニューヨークからシカゴまでのショート、これは新しい試みで
⑧カルフォルニア州のサンフランシスコ周辺のレンタカードライブとゴルフチャレンジ旅行、最近
行ったのは、⑨ニューヨーク~ワシントン~テネシー~ダラス~アルバカキー~ロス~サンフランシスコのアメリカV字横断をしながらのゴルフチャレンジ旅行です。
 何処から掲載をしようか考えていますが、特に面白かったのは、⑧⑨の旅行でした。ビジネスが
絡んだ旅行ですから、そのビジネスもついでに掲載しようと思っています。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月26日日曜日

1991年から2013年の華中(千島湖の景色)・・・52

2014.1.26日 快晴日の出美しい 午前7:15
 大量殺人事件のあった危険極まりない千島湖は昼夜区別なく美しかった。私が乗った漁船兼観光船は千島湖の西のはずれのダムの岸壁まで行ってくれた。あの岸壁の向こうは安徽省との説明
であった。その岸壁の上空に夏の入道雲が浮かび、水色と緑と青空の入道雲のコントラストは夏を象徴した美しさでした。
 次に、小島に上がり獣道のような小道を歩いて毒蛇がいる施設に向かった。そこで見たものは、
毒蛇であったが養殖の毒蛇ということで、毒蛇としての迫力は少なかった。景色も何も無く、この島を10分も見ないで船に帰り、いかだの島の魚の養殖場のベースに船を走らせた。このあたりまでの観光から、この案内人たちの危険性は少ないと判断ができた。案内人の二人の物腰と、目の優しさを観察してたら、危険な人間の目でないように思え安心感が漂ってきました。
 そして、いかだでの昼食と水浴びの遊びをする時間帯となり、船はいかだを目指して一目散に
走り、いかだの竹に船を繋いだ。既にいかだの上では、養殖場の夫婦が私の昼食を作ってくれていました。湖魚を油で揚げたおかずと白飯、何とも分からないスープであったが、味は覚えていません。ただ、水の美しさと水中の魚が私の食べた残飯を目当てに、いかだの周辺を泳ぎまわって
いたことを憶えています。
 千島湖の上空の入道雲、澄んだ湖水、湖の縁の水草、人の声無くも、何処からか聞こえる蝉の声は、私の千島湖危険旅行の思い出です。正に、危険地帯は美しいものも同居しているものだと
改めて思えました。
 明日からはしばらく中国編でしたからアメリカ編にもどります。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月25日土曜日

1991年から2013年の華中(千島湖の危険)・・・51

2014.1.25土 快晴 午前6:45 日の出時間
 昨日からの続き、何事だ、これは何だ、あれらの目的は何だ。私の車の前方の左右を2人の若者が制御をし始まった。直ぐ分かった。自分たちの経営する観光船に乗せたくて誘導をしているのだ。私は素直に従い、その桟橋の駐車場に車を入れた。千島湖の大量虐殺事件を思い出し、相手に隙を見せないように行動した。私は相手のボスらしき者に「駐車場はいくら、船はいくらだ」とぶっきらぼうに問うた。この場合の重要なことは目を絶対にそらさずに聞くことです。ボスとの交渉を終わり、金を払い船に乗り込んだ。船員は2人、船外機を取り付けた簡単な漁船兼観光船のようである。千島湖の境の安徽省まで行って、毒蛇を養殖している小島に上陸をし変わった蛇を視察、船に戻り、湖内の竹で編んだ養殖施設で水浴びをする観光である。
 これまでの危険性を顧みると、①車を誘導されて自由を失ったこと、②船員二人の船に乗船したこと、③小島に上陸することは単独になってしまうこと、④いかだの上に上がり、水浴びをすること等、相手方にとっては全部襲えるチャンスがあることである。私は頭の中でどのように隙を見せないで行動をするかを考えるほか無くなったのである。
 防御と襲う隙を与えない行動をする他ないと考え、①は通過しているので考える必要が無い。
②は船の上では船員に背中を見せないこと、船員が指をさして何かを見ろ等の行為を真に受けないこと、常に船員を前に置いて動く。③小島への上陸は置き去りにされて荷物を持っていかれることや島内で襲われ荷物を奪われること等危険極まりない区域となるから、旅先の護身用のナイフを隠し持つことにした。④いかだでの水遊びも危険であるが、隙を見せないこと等を考えて、船の後方、つまり、船員が見渡せる場所に乗船をした。
 千島湖事件は大量虐殺事件で台湾人の財宝を奪った事件であった。殺された人数は20人前後
だったようである。この危ない地を見に行く目的は、危険なところに美しいものがあるからである。
誠に馬鹿らしい旅行であるが、私の脳裏に刻まれた景色は明日に掲載します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
乃木大将写真を中国で見つけた

2014年1月24日金曜日

1991年から2013年の華中(杭州の奥の千島湖事件)・・・50

2014.1.24金 曇天 午前6:40
 上海から千島湖に行くには、杭州に向かい、郁達夫の故郷の冨陽を経て、建徳を抜け、淳安まで達しなければならない。行く途中には、様々な町や村がありスーッと行けたわけでない。何度か車を降りて方向を村の農民や長老に聞きながら行きました。およそ日本の風景にない農村部落の
素朴な様相や、周辺の住民が生活物資を調達するだけの町、行く途中の道路が突然に無くなり、砂利道に変わり、凸凹した原始的街道、鬱蒼と茂った木々の部落等を通り抜けてやっと到達できるといってよい行程で到達できました。このように表現すると、千島湖はかなりの人家のない山奥だろうと考えるでしょう。しかし、そこは大陸の中国です。行く先々に賑わいや不思議な産業が存在しています。
 さらに千島湖の縁に出ようと、私は山奥の細道に入って行きました。途中から村の怪しげな人が現れ、車のボンネットの左右に立ちはだかり、私をまっすぐに走らせようと誘導を頑固にしています。何事、次は時間が無く、明日にさせてください。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月22日水曜日

1991年から2013年の華中(杭州千島湖)・・・49

2014.1.22水 晴 午前7:15
 今日は温かい日である。散歩途中で春の匂いを嗅いだ。何かなと鼻をクンクンしたが分からずじまいであった。しかし、毎日毎日、春の匂いを嗅ぐようになるだろうから、これから楽しみにします。
 千島湖といっても日本人には馴染がうすいが、15年前に台湾旅行者の船詰め殺人事件があったところである。なんでも20人くらいの台湾人旅行者が船に閉じ込められて火をつけられ、財物を奪われた事件である。何故だろう、金持ち台湾人の旅行者全員の財物を奪っても巨額にはならないはずだから、現地の犯行者の金銭の価値感は乏しかったと考えます。大量殺人を犯してでも、
旅行者全員の財物が欲しかったのか、杭州の奥地では人命の尊さは無いのだろうかと考えてしまいます。
 私はこの事件を新聞で見て、この地に是非とも行きたいと思い、その計画に移りました。誠にスリリングな旅であったので、明日より掲載します。千島湖に行くまでの田舎道や暗くなる前に町に
着きなさいと長老の話と、曲がりくねった桟道や昼間でも暗い田舎道等を行った記憶が蘇ってきました。本文を記していると約20年前の頃の勇気と躍動感が蘇ってきます。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月21日火曜日

1991年から2013年の華中(南京風情)・・・48

2014.1.21火 曇 午前6:30
 南京市はとにかく政変に巻き込まれた町である。古くは呉の国や明の政府がおかれたが、最近では汪兆銘の南京政府や国民党の政府もあった歴史を記す重要な地点です。
 今や南京は人口810万人の大都市ですが、有名な蒋介石と宋美齢の国民政府官邸跡もそのままに美齢宮として残っています。美麗がアメリカ政府から送られた高級乗用車ビュイックが玄関前に待機してます。部屋を見学すると、大型風呂や大型ベッド、化粧室等の贅沢な生活必需品を見ることができます。その時代に毛沢東は洞穴に住んで執務をしたが、蒋介石は高級な邸宅に住み化粧の匂いを嗅ぎ執務をしていた。この差が新中国を作る原動力なったのか否かは分かりません。古い時代に当てはめてみて、項羽と劉邦や玄宗皇帝、呉と越の西施を思い起こせば明暗は明らかである。但し、天下を取った人物は必ず瀟洒に耽るのも歴史が証明しています。
 夜の歓楽街の夫子廟を訪ねて、昔の政府役人になったつもりでの宴会も悪くはありません。料亭
の個室の窓から、秦淮河に映るランタンの赤色に、何かを準えて想いに耽るのもオツな遊び方ですから、是非一度は訪ねてみてください。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 
 

2014年1月20日月曜日

1991年から2013年の華中(南京)・・・47

2014.1.20月 曇 午前6:00
 -5°の月曜の朝である。外は暗く、物音一つしないが、ストーブの音だけが活気づいています。
新春といえども春の色は野原に見えず、心なしか町行く人の服装は明るくなってきたような気がします。時折、早い出勤と思われる車が、暗闇の中を音も無く夜間灯を照らして走って行きます。
 東海村から2千キロ離れた中国の南京の話ですが、この地は歴史の宝庫といっても過言ではありません。古い歴史や新しい歴史がわんさと町中に横たわっています。唐の時代から明の時代や
昭和を騒がせた日本軍の南京行進等、これらの歴史が南京の町の歴史です。南京の近くの町に、
鑑真和尚ゆかりの揚州がありますが、杭州の西湖に比し、痩湖?と鑑真のお寺が観光地になっています。南京には紫金山や南京城、中山公園と昔の役人が会合や宴会をした場所の有名地が沢山ありますので、書いてみたいと思っています。
 明日からはこの町の面白いところを中心に記してみます。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月19日日曜日

1991年から2013年の華中(無錫の太湖)・・・46

2014.1.19日 曇りのち晴れ 午前7:30
 無錫には冬に行った時の記憶が鮮明に浮かんできます。その日は仕事が早く終わり、太湖を見学しようとなり、郁運転手と車を太湖に走らせました。太湖の湖は周囲が80kmあり、1周しようものなら150kmくらいを走ることになるので、太湖の岬から歌にある三山を確認しようとスケールを圧縮した小旅行にしました。入場料は1人1,000円くらいですがガッチリ取られました。後に、その入場料の悪評は延々と続き、中国人の観光客が少なくなり、市政府は困っているようです。
 この湖の東側に大きな蘇州市があり、西側には浙江省の湖州市に接続し、北側は無錫市、
南側は浙江市の嘉興市と繋がっています。四方の度の町も産業の盛んな町ですから、当然に
無錫も産業の盛んな大きな町です。高速道で南京に行く途中の町です。
 太湖に進入した私たちは、湖の北側の岬まで車で行けました。小舟に乗って湖内の島に上がり、猿のいそうな島内を徒歩でびくびくながらゆったりした観光をしました。太湖を一口で表現すると、
「空青く、山高からず、湖は濁水」となります。近くの産業水が湖に流れ込んできているようです。
もったいない大湖は、蘇州の西奥に恥ずかしそうに潜んだ湖でした。2013年12月に再度訪れた
太湖も同じような状況でした。観光資源を大事にしましょうよ。地球人へ。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

 

2014年1月18日土曜日

1991年から2013年の華中(蘇州の宴会の終わり)・・・45

2014.1.18土 曇天 午前7:30
 蘇州の宴会の終わり間際に、最後の乾杯をやりました。8人のパーティで日本人は私だけで、後は全部中国人でした。白酒45度を7人とイッキ飲みをしました。小さなお猪口くらいのグラスに満たされた白酒が毒酒に見えました。強い匂いと強い度の酒をイッキに飲むわけですから、日本人の
口と喉、食堂、胃に合うわけがありません。目を閉じ、腹に力を入れて、大きく口を開けて、ガブリと
流し込みます。最初の一人や二人との乾杯までは、何とかいけますが、三人四人となってくると、
ギブアップをしたくなってきます。7人ですから14個の目がこちらに注がれていますので、インチキはできませんし、日本人として頑張りたくもなるものです。遂に頑張って7人との乾杯が終わるころは、目はフラフラ、体もフラフラで立っているのがやっとな状態です。同席者の全員の拍手も聞こえないくらいです。それでも、宴会の目的や相手方への印象を気にしながら退席をします。エレベーターの前で全員と分かれ部屋に戻るのですが、部屋番号等はとっくに忘れています。慌ててカバンを中を探すのですが見つけられません。やむを得なくフロントに戻り、部屋の電話番号を聞きますが、そっけなく言われるだけですから、聞き取れません。紙を出して書いてもらい、エレベータに戻り、部屋に向かいます。フラフラの目や体は、鍵穴への焦点が定まらず、ガチャガチャの音を発してしまいます。やっと部屋が空き、中に入り、ベッドへまっしぐらとなり、ベッドにもぐりこめずに、
ベッドカバーも取らずに眠りこんでしまうことになります。これが中国の1991年代の宴会でした。
 言うまでも無く、翌日のひどさは表現できない程に大変なことになってしまいます。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 

2014年1月17日金曜日

1991年から2013年の華中(蘇州の色と宴会)・・・44

2014.1.17金 曇天 午前7:10
27年前に蘇州に行きました。当時の蘇州の町の色は、建物は白と黒、服装はブルーの人民服でした。空は紺碧、緑は緑、川の色は混濁色でしたが、ほぼ自然の色が残っていました。夜になるとホテルの宴会部屋は、胡弓を弾く女性のチャイナドレスの色は鮮やか、歌い手のドレスも鮮やかで旅行者の目を楽しませてくれました。中国独特のメロディを聞きながらの蘇州料理を味わったものです。宴会の部屋を出る旅行者の頬がほんのりと赤くなっているのは、酒だけのせいではないと
思いました。我々日本人が宴会室に入ると、すかさず歌い手やバンドのマスターが李香蘭のイエライシャンを奏でたり、歌ったりしてくれました。中国人と日本人の合唱で北国の春を歌ったりもしたものです。円卓テーブルには、山海の珍味や紹興酒、白酒等が並び、アルコールの匂いと蘇州料理の匂いが混ざり独特の中国の夜を醸し出していました。宴は深夜までに及んだものです。乾杯乾杯の掛け声は、正に親友同士の弾んだ掛け声に聞こえました。
 明日は宴会終了間際から部屋の戻り、眠りに着くまでを掲載してみます。
 
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月14日火曜日

1991年から2013年の華中(蘇州)・・・43

2014.1.14火 快晴 午前7:20
今日は上海から90km離れた人口1050万人の町、蘇州市を掲載するつもりでしたが、時間が無くなり明日以降にします。
             アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月13日月曜日

1991年から2013年の華中(南通市)・・・42

2014.1.13月 快晴 午前7:30
 私は南通市に2回ほどの訪問歴があります。一回目は1991年でしたが、揚子江をカーフェッリーで渡り、22年後は高速道の高架橋で渡りました。一回目の訪問時の目的は、最近発達している
対岸の町に様子見に行こうや、と中国人の友人に誘われたので、ヒルトンホテルからハイヤーを
調達して行きました。その当時の道路は整備がされていなくてとも不便でしたが、2013年12月の訪問時はとても便利に行けました。
 南通市の人口は769万人です。五代十国時代に誕生した町といわれていますので、相当古い
歴史があると思いますが、有名な地名や歴史の舞台を聞いたことをありません。方言は呉の国の
方言が使われているようですが、詳しくは分かりません。地理的には上海から東に揚子江を渡った100kmのところで、黄海と太平洋に望んでいる町です。今や中国内でも最大の発展をした屈指の町になっているそうです。日本の泉市や豊橋市と姉妹都市にあります。
 私の一回目の訪問は経済視察と観光、二回目は商談です。何となく思うのですが、良い商談に
発展するような気持ちでいます。理由は日本人と似たような気質を持っているように感じたからでっす。距離にすると鹿児島から南通市まで直線距離で800kmですから、大陸続きなら10時間で車で走って行けます。明日は数十回訪れた蘇州を掲載します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
PM2.5で太陽も景色も見えにくい環境でした(冬12月)

2014年1月12日日曜日

1991年から2013年の華中(松江区と水戸黄門さん)・・・41

2014.1.12日 快晴 午前7:00
 私は松江に少なくとも10回は訪問しているはずですから、思うままに記すことになります。上海から33kmの松江区に方塔公園があり、その中に朱舜水記念館があります。その記念館の中に水戸黄門さまの武家姿の写真が掲げられています。何故、松江区に朱舜水の記念館があるのかは、調べたところによると、9歳の時に親を亡くし、兄が松江の役人であったので、それを頼りに明の時代に移り住んだとなっています。古い時代の松江は唐の時代に役所がおかれ華亭と呼ばれていたそうです。最近になり上海市の行政体に組み込まれた区となっています。
 1990年に茨城大学と復旦大学の交流があり、茨城大学に来水した数人の大学教授が、茨城県日中友好協会の会合で、朱舜水のことを崇めていた茨城人の心意をくみ取り、帰国後に日本の橋本大使を招き、朱舜水と水戸黄門さまの武家姿写真を掲示したそうです。
 水戸黄門さまの写真が、上海市松江区の朱舜水記念館に掲示されているということは、私たち
茨城人にとって、とても胸を張れる日中交流の美談といえます。思うに、日中の今の諍いは、
淋しく悲しい出来事ですが、終わらない諍いは無いとの信念で、終わるのを待ちわびます。
 次回は南通市を掲載します。
                 アメリカ・アジア大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月10日金曜日

1991年から2013年の華中(松江区と水戸黄門さん)・・・40

2014.1.10金 快晴 午前11:20
 上海から南に100kmくらい離れた町で松江という町があります。多分に30年前のこの町は、
水田や畑と農家の点在する静かな村であった。春の田植えや秋の稲刈り時には、大勢の農民が家族で働き、賑やかであったと思われます。
 しかし、今は大きなビルや巨大な工場が立ち並び、そこで働く労働者を大勢見かけるようになりました。走る車は高級車と大型トレラーが大半です。工場群の本社は、アメリカ、ヨーロッパ、日本等
多国籍企業です。従って、町行く人のファッションはヨーロッパ調やアメリカ調、日本調も見かけます。料亭や食堂等は、日本料理や韓国料理、中華料理が主流であり、アメリカ料理やヨーロッパ料理等は殆ど見かけません。夜の代表的な遊びであるカラオケや居酒屋等は、町の中心地には多く
存在していますので、疲れた神経を癒すのには便利です。
この町は水戸市と密接な関係がありますが、大半の水戸人は分からないと思います。何故水戸人と関係があるかというと、それは天下の副将軍水戸黄門さんが一役かっています。あのことについて次回に記します。

                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月9日木曜日

1991年から2013年の華中(杭州西湖)・・・39

2014.1.9木 雨 午前7:10
 浙江省の杭州には数え切れないほど訪問しています。1泊や3泊をかけた訪問でした。最初は1991年の秋口だったと記憶をしています。それも日帰りの杭州観光でした。当時は高速道が無く、国道を5時間くらいかけて行ったものです。メモを見ないで記しているので、曖昧な点があるブログになってしまいますが、誤記や誤認があればお許しください。
 西湖にはヒルトンホテルからハイヤーをチャーターして行きました。相当高いチャーター料を払ったかもしれませんが、忘れてしまいました。日本人2人と案内の中国友人を連れて行きました。
 距離は250kmくらいあったでしょう。秋の雨降る国道を黒塗りのハイヤーで疾走したことを思い出しています。行くのに5時間、帰るのに5時間、観光は昼食をはさんで1時間でした。水戸市千波
湖のモデルと言われている西湖の湖畔で10分間程度たたずんで、最高級のシャングリラホテルで
昼食をとりました。私は最高級が好きでは無いのですが、当時は午後2時を過ぎると食事を摂れる
場所が無くなってしまうからです。やむをえなく、シャングリラホテルに向かいました。なのを食べたかは、忘れてしまいましたが、お土産にシャングリラホテルの篠の箸をしこたま買ったのを憶えています。上海のヒルトンホテルに戻った時刻は、午後8時以降と思い出されます。この華中の小冒険旅行は、上海を中心に彼方此方にいきましたので、明日から華中を中心とした小旅行を暫し掲載します。20分から30分で掲載しますので、乱雑、乱暴の掲載を笑っていただきたいと思います。
 明日は思い出すままに、松江、南通、蘇州、無錫、杭州、煙台、青島、福州、アモイ、海南島、
済南、長春、大連、シンセン等を地図を見ながら記します。
               アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月8日水曜日

1991年から2013年の華中(紹興市と臭豆腐)・・・38

2014.1.8水 曇り 午前7:25
 紹興酒と臭豆腐と聞くと、私の口の中に唾液が充満してくるのである。醤油の色のような紹興酒
がお椀に入って出てきます。そして、つまみにはインゲン豆がやはりお椀に入って出てきます。これだけでは足りないので、臭豆腐を注文します。やがて、熱い臭豆腐が出てくるのですが、それが
来た瞬間に、日本人は鼻を背けてしまいます。普通の人は思わず、「いや、臭い」という言葉が出てしまいます。本当に臭いのですが、ほんとに美味いのです。ビールや紹興酒と組み合わせた臭豆腐には、日本に戻っても未練を残してしまいます。このブログを記している時でも、口の中に唾液が出ています。昨年の12月に商談で中国に居たが、その地方でなかったので食べられませんでした。今思うととても残念でした。
 
 皆さんにお勧めします。是非、魯迅や周恩来の故居がある紹興市で紹興酒と臭豆腐で一杯やってみてください。中国通になれます。

                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月7日火曜日

1991年から2013年の華中(魯迅と紹興酒)・・・37

2014.1.7火 快晴 午前7:00
 魯迅の故郷の紹興市に何度も訪れた。この町の風情は茨城県の潮来地方に良く似ていますが、
町の大きさや山並みの美しさは、潮来地方も及ばないと思います。古代は越の国で、臥薪嘗胆で
有名な山にも登りました  魯迅の常在した居酒屋で丼ぶりで飲むビールと紹興酒は格別の味わいでした。この町の建物の特徴は、壁白く、屋根黒く、玄関大きく、部屋広く、中庭有り、書斎や使用人等の部屋もありました。開放前の中国の地主や商店主の自宅は、とても壮大で日本では形容し難い屋敷といえます。私はこの町に何度行ったであろうか。数え切れないが、この町は私にとって、どこかで私の心の奥底を震わせるものがあります。
 何故だろうか、魯迅は仙台の専門学校に留学する時に、常磐線に乗り、仙台に向かったのであるが、「水戸駅」という地名を想い出に書いてくれているので、この町に親近感が湧くのだろうか。最近、感じたのですが、越の国の人々は日本人のDNAと結びついているのでないだろうか、と思い、明日より全くの素人論として、この地方の風景、酒、食べ物等の快楽を中心に記してみます。
              アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                 
鋭い山、越之国の山裾の部落(初夏)

2014年1月5日日曜日

1997年から2013年のアメリカ(砂漠から抜け出たら次は・・・)・・・36

2014.1.5日 快晴 午前7:30
 砂漠の中に入った私は、ガソリンの残量から水の残量までのチェックをしました。水や食糧は
一日二日分は十分ありますが、一番大事なガソリンが50km程度を走れる残量しかなくなってしまったのである。日は暮れた、ロッキーが見えなくなってしまった。車内で野営か、進むか、バックは
もはや困難である。
 私の頭を過ったのは、そうだ、このことを貴重な体験にしようとの考えであった。ロッキーの山の中で、ガソリンを失い、一晩を車内で過ごせたら、素晴らしい朝日を拝む体験ができる。と考えてから、次の困難は何がおきるか、胸がワクワクしてきたのである。私の目と頭は闘争的ながらも、余裕のある目と頭に変わった。それによって、遠くの暗闇の先が見えるようになってきた。今はロッキーのどこかの頂きにいるはずだ。近くに牧場らしきものがあるようだ。道路の標識等も町の近くのように整備されている。路肩に空き缶やチョコ等の袋も落ちている。町は近いと判断をした。30kmを進もう。人家が無ければ野営でやむを得ないと判断をした。
 
 周囲の観察をしながら30kmを進むと、やがて暗闇の中に牛の牧場らしきものが見えてきた。窓を開けると家畜の匂いが漂ってくる。更に目を凝らすと、大木の下に数百頭の牛が寝ている。牧場があれば集落もあるはずだと思い、曲がりくねった道に車をどんどん前に進めた。月が出てきて、辺りを明るくしてくれた。やがて、一軒の商店の明かりが目に入り、小規模のモーテルの看板も見えた。淋しげなモーテルであったが、入口の前に車を止め、カウンターの前に立ち、西部の大男に
「部屋はあるかい」と日本語で言い、調子と迫力を出してから英語で「Can I get a room」と迫力が感じられない英語で問いました。この瞬間で、野営はしなくてよくなり、砂漠も出たが、人並みに屋根の下で寝る夜になってしまいました。明日以後は中国に戻ります。

                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月4日土曜日

1997年から2013年のアメリカ(夕暮れとガソリンの残量)・・・35

2014.1.4土 快晴 午前6:40
 二日ほどブログを休んでしまいました。元旦のブログには、正月一日のことを掲載しましたが、二日と三日の出来ごとで、子供たちはきたのですが、特に記載することは無いので怠けてしまいました。今日も朝から天気の良い正月です。
 さて、前々回の続きですが、アメリカのリオの町から北東に反れて砂漠の町に入りましたが、道に迷った私たちは、夕暮れになり、ガソリンも少なくなり、トボトボとロッキーの砂漠の中を彷徨っていました。進むか、退くか、野営か、三つに一つとなりました。夕暮れ時は、人々の心は淋しくなるのものです。砂漠に舞う風で、木立の低い草木が風に揺れ、砂埃も立ってきた、心なしか昼間に元気の良かったサボテンまでが肩を下しているように見えます。太陽は山陰に隠れ、月が今からは俺の番だと待っているような夕暮れのムードとなってきてしまいました。
 ガソリンの残量で走れる距離は、約100kmと判断をして前に進むことにしました。出来るだけ経済速度で走り、坂道ではニュートラルにして車を前に前に運ぶ運転をしました。いくつかの坂を登り、いくつかの盆地を過ぎて、いよいよ走れる距離は50kmくらいにまでになりました。ふと思いました。携帯電話の電池の残量、飲料水の残量、携帯食の残量、全てのチエック作業は、残量の確認です。今日の現時点は淋しいアメリカ縦断になっています。出発前はあれもやろう、ここにも行こう等と欲深かな考えで胸を膨らませていましたが、今はとんでもない状況になってしまいました。
 そして、真っ暗闇のロッキーの天辺で、土壇場に落ちいった私の頭は次の考えに進んで行きました。               
アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2014年1月1日水曜日

1997年から2013年のアメリカ(元旦)・・・34

2014.1.1水 快晴 午前8:00
 あけましておめでとうございます。今朝の寒さは厳しかったが、散歩運動に出かけました。一旦、家に戻り、今から照沼家の山の頂上にある氏神(先祖が江戸時代に伊勢神宮に参拝した時を記念して建立した社)さまに年賀の参拝に出かけます。自宅から500m離れた安白山に祭られた
江戸時代の社ですが、畑を横切り、水田も横切り、海抜50mくらいの頂上に祭られています。奉納するものは、ミカン、モチ、日本酒だけです。お願いをすることは、部落の安全と平和、私の家の
家内安全と事業成功、友人知人等全ての関係者の安全と平和です。正月ごとに参拝をしているのですが、かなり願い事を聞いていただけます。部落にも私個人にも平和を何十年も下げてくれています。今か出かけて帰宅したらその状況を掲載します。
 私が汗をかいて登った山の天辺の氏神に奉納したミカンとモチは、一瞬のよそ見をした瞬間、何者かに持ちされてしまった。カラスかハクビシンか、人間か、信じられなかった。サイレンントの持ち去りでした。空を見てカラスを目で追ったが、確認できない。木々の周辺とその藪の奥を見たが確認できない。高い木の上から烏が狙ったか、獣や動物が藪の奥から狙っていたか、それとも乞食さんが木々の奥から狙っていたか、私は不安、不信、不可思議の気持ちで社を後にした。30m、50mの地点で振返ったが、誰も出てこないし、物音一つしない。思わずゾーッと背中に冷たいものを感じ、急いで山を降りる破目になりました。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝