2013年11月30日土曜日

1991年の中国(蘇州・杭州)・・・20

2013.11.30 土 快晴 午前6:20
 今から22年前の中国の蘇州は純然たる観光地であった。外国人が行ける場所も制限されていて、何やら怖い感覚が湧きおこったものです。
 さて、今日からその蘇州市に出張しますが、今の蘇州杭州は観光地+一大産業地に変わっています。ビジネス街には、ベンツやBMW等の高級車が犇めきあい、颯爽とした中国ビジネスマンが闊歩しています。蘇州の揚子江を渡った南通市と揚子江を遡った無錫市に行きます。上海に一泊、無錫に一泊、その時による町に一泊する予定です。日中両国の良いビジネスになるように願っています。今の日本と中国は何やらギスギスしていますが、歴史的に見ればほんの一寸した摩擦程度でないでしょうか。
毛沢東も言ったでしょう。ケンカすれば仲良くなると。大陸のその言葉を信じて、私は中国に行きます。ブログは数日間の休みを取ります。
            アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

2013年11月29日金曜日

1997年のアメリカ(ニューヨークの夜)・・・19

2013.11.29金 快晴 午前7:00
 その当時のニューヨークの夜は賑やか過ぎて、田舎出身の私には面白いと思いませんでした
ので、夜遊びはあまりしませんでした。と言っても、冒険好きな私ですから、マンハッタンの夜をグルグル歩き、多少の刺激を受けようとしたものです。ネオン瞬くというものではなく、ネオンの豪雨と言えば分かりやすいとい思います。そのネオンの豪雨の中を、右往左往しながら夜更けまで彷徨いました。わけのわからない人物から声をかけれます。「・・・だが」「今夜どう・・・」「酔っ払えるよ」「天国があるよ」「・・・は好きかい」「良いバーを知ってるよ」等々です。・・・の部分の理解はお任せします。
 彷徨った後は、ホテルに戻り深夜のテレビを点けて、何時しか眠りに入ります。突然、夜中に目が覚めます。時計を見ると午前2時とか同じく3時の時間帯です。そうすると日本の事とか、父母
のこと、旧友のこと等がボンヤリとした頭に浮かんできます。不思議に家のことは浮かんできませんでした。多分理由は、平平凡凡の家庭だからでしょう。私の家には際立った者がいないので
夢にも出てこないのだと思います。
 私のニューヨークの夜は、アメリカの友人の家でパーテイに参加したり、一寸したバーに友人連れで飲みに行ったりした程度でしたと掲載しておきますが、その後のアメリカ訪問は、とても刺激的で、私の野生感が戻った旅になりました。
 私は明日から中国上海にソーラーの輸入商談で行きます。家内は今日から1週間後に中国広東省で仕事をしている長男の慰問に嫁孫と行きます。
 少々のお休みをください。
         アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年11月25日月曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク周辺)・・・18

2013.11.25月 曇天 午前6:00
 前回はハドソン河の対岸から見たマンハッタンを記しましたが、今回はニューヨークの有名なところを思い出すままに記します。マンハッタンの中央にセントラルパークがありますが、マンハッタン見学時にはこの公園を中心に置くと歩くのが便利です。日本人から見ると広くて、何処まで行くと終わりがあるのとため息をつきそうになります。自由の女神はマンハッタンの南最先端から船に乗り、自由の女神まで行くようになります。東側にはイーストリバーがあり、JFKケネディ空港からマンハッタンに入るのには、この川の橋を跨ぐか地下道を潜るしかありません。マンハッタンの中での名所はエンパイヤ・ステートビル、ロックフェラーセンター、タイムズスクエア、5番街等々沢山ありますが、私は自由の女神をバッテリーパークから眺めるのが大好きです。何故かと言うと、自由の女神を海を跨いで眺められるからです。海を見ていると様々な有益の発想が湧いてくるような気がします。私の生まれた東海村には村松海岸があり、子供のころから海を見て、様々な将来を
夢見たものです。今でも海を見ていると私の少年時代の海を見ていた気持とオーバーラップしてしまいます。ニューヨークに行ったら、是非、皆さんもバッテリーパークからボンヤリと自由の女神を眺めてください。マンハッタンの最南端です。ヨーロッパの風を感じるかもしれませんから。
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 
 

2013年11月23日土曜日

1991年の中国(上海の夜)・・・17

2013.11.23土 快晴 午前6:30
 イエスタデイーというパブを起点として、蘇州、杭州、南通等の地域に小旅行をしました。案内人は科学者のヨウ氏や元パイロットのチョウしでした。ヨウ氏は我々に旅の途中で危害が及ばないないように万全なガードをしてくれました。夜の案内はチョウ氏がやってくれました。二人の中国人の
案内で昼間と夜の上海を堪能できました。ありがたく感謝しています。南通市へヒルトンホテルの
ハイヤーを貸し切り行った時の話です。帰途に着き、昼食を取るために街道筋の農民の食堂に入った時の光景です。日本でいえば田ウナギですが、中国でいえばウナギというそうです。農民食堂の裏に回って、その他うなぎを料理するところを見ました。その農民の子供が一生懸命に、田ウナギを我々のために料理をしています。ピカピカ光る包丁で料理がされているのかなと思って覗いたら、何と錆びたハサミと黒っぽい俎板で田ウナギの腹を割いていました。その子供は悪びれずに黙々と田ウナギの腹を裂いています。思わず唖然としたが、ここは上海の田舎と思い、謝謝と礼を言って食堂に戻りました。数分すると、先ほど割かれていた田ウナギが湯気を立て、お皿の上に乗って運ばれてきました。都会人の友人K君は箸が進まないようでしたが、田舎者の私は、先ほどの光景を思い出しながらも、美味い、美味いと念じながら、頑張って食べました。上海の町の100km
ほど手前の無名の村での昼食時の話でした。
 田舎の農民食堂で昼食を取った後の、夕食はヒルトンホテルの最上階で口直しの高級中華料理を食べましたが、この日の旅を形容すると、エレベーターで地下から最上階までイッキに登ったような感覚になりました。
 今回は国際酔客の様態の話と思ったのですが、記しているうちにこの話をしてしまいました。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
揚子江の延長河口

2013年11月21日木曜日

1991年の中国(上海の夜)・・・16

2013.11.21木 快晴 午前6:20
 イエスタデイーというパブ調の店は超人気を維持していました。ところが中国の当時の法規制でカラオケが無い店でした。私がマスターに「どうしてカラオケが無いの」と聞くと、マスターは「カラオケは全部で100万円の費用がかかり、今の収支では購入困難だ」という。それを聞いた私たちは
「100万円を出す、儲かったら返せば良い、利息は不要」と提案をしたら、「100万円を出してくれ、
必ず返済できる」との答えでした。その時から、私は中国人の徳に触れ、中国人は日本人の律儀を重んじる正確に触れたのかな思います。こうして民間日本人と民間中国人の友情が芽生えて行くことになりました。その後に数か月で、全額に利息がついて戻ったことは言うまでもありません。
いらないという利息を無理やり手渡されたが、その利息分全額はイエスタデイーの飲み代に
消えてしまいました。それから今も、イエスタデイーのマスターとママと我々日本人の友情は半永久に続くことになりました。
 上海に行く度、私が店に引率した仲間は、政治家、役人、企業家、サラリーマン、弁護士、会計士等の多彩な人々をこの店に案内をして飲んだものです。その当時の写真が今でも店の壁に貼ってありますが、私が引率した人で、一番の思い出は、息子が上海外語大学へ留学中につれて行き、ママと一緒に杯を上げ、息子を国際的な社会教育?したことでした。笑笑笑
 明日はこの店の国際的酔客の様態を掲載します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年11月19日火曜日

1991年の中国(上海の夜)・・・15

2013.11.19火 快晴 午前7:20
 その当時の上海の昼は雑踏風の賑やかさ、夜はネオン無く、ホテルの純粋なバーで一杯やり、適当に酔いながらベッドに入るほかありませんでした。
 そのような状況でも数件のカフェーができつつありました。ガーデンホテル正門を出て左に曲がり、直ぐに右に曲がり100mを歩くと、左側にイエスタデイーというスタンドバーがありました。ビートルズーやジェムスデーンのポスターが掲げてあり、なかなかのセンスを持った店が立ち上がりました。フランス租界地の洒落た建物の2階の店です。昼はお茶を売り、夜になるとバーになります
が、1.8m前後のママが超美人で超スマート、夫はジェームスデーンのような美男大男、健康的な店で欧州やアメリカや日本の駐在員が屯をしていました。この店のママと夫は私の朋友になり、この店の経営問題にまで介入するような関係になりました。とにかく最高の場所と言ってよい環境の店ですから、客は集まり、何時も座る場所が無いほどの店でしたが、私の中国大陸馬賊の出発点となった店です。
 明日からは、この店を中心として上海を彷徨ったことを記します。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
スピード感増幅の上海

2013年11月18日月曜日

1991年の中国(上海の夜)・・・14

2013.11.18月 快晴 午前6:50
 天安門事件が終わって1年過ぎた頃に、中国の友人から誘われて上海に行きました。古真かしい虹橋空港に降り、日系ホテルのガーデンホテルに宿を取りました。上海で目を奪われたのは、人混みと夏の熱風でした。ホテル周辺を一回りしましたが、夜の遊びは無く、人々も人民服に毛が生えたようなお洒落しかしていませんでした。それでも私の探究心は旺盛極まりなく、路地から路地に入り込んで、真っ暗な闇の路地を徘徊しました。当時の上海の田舎のトイレは部屋の中に少なく、外トイレでしたので、真っ暗な路地にしゃがみ込んで動く者があり、目を凝らして見ると用を足している住民だったり、真っ暗な路地裏からは、夕食時などには強烈な油の匂いが漂い、慌てて路地から大通りに出たりしました。
 一寸一杯の酒屋を見つけるのは困難で、一杯やるのは中華料理店かホテルのバーだけでしたので、一寸物足りない上海の夜でしたが、それでもめげなく夜の町と昼の町を徘徊しました。黄浦江の公園、昔競馬場の人民広場、南京路、和平飯店の老ジャズ団、右翼の児玉氏の昔のホテル事務所、犬と中国人は渡るべからずの橋、旧日本軍のスパイ機関の跡地等の歴史に残る名所の全部を観察しました。当時の上海人の多くの目はギラギラと輝き、近代的な文化を貪欲に取り入れようとしていました。昼間は原子力科学者の真面目なヨウ氏の案内でしたから、色々な上海の真面目文化を学び、夜は自らの案内でしたから色々な上海の風俗を発見でき楽しめました。
 明日は上海(shanghai英語の意味では一度入ったら戻れない所)と訳できるそうですが、具体的に
経験したことを掲載していきます。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 

2013年11月17日日曜日

1991年の中国(上海扁)・・・13

2013.11.17 日 快晴 午前6:30
 しばらくぶりのブログになりました。理由はビジネスが忙しく、岡山まで出張をしていました。しばらくブログをしないと一種のストレスに見舞われます。今日は、1991年に再度中国に行った時の出来事を掲載します。
 当時の上海の空港は虹橋空港でした。戦前からの空港で歴史を残していました。町の真ん中にあり、駐車場も狭く、建物の色も古真かしく、飛行場なのに近代的なものは特に見られませんでした。一歩外に出ると、ワーゲンのタクシーと60年代の国産車のタクシーが走っていました。レストランや食堂は、今の上海の景色から見ると嘘のようでした。夜中に腹が減って何かを食べたくなり、
食堂を探すのも大変でしたが、24時間営業で有名な「夜の上海」とヒルトンホテル地下の「エクススプレス」は夜に蠢く紳士と淑女の溜り場で、私も常連の一人でした。そこでは怪しげな商売や
危険な取引の密談が行われていました。夜半1人でお粥等を啜っていると、必ず話をかけられます。商売や闇両替の話、骨とう品の買い手を探す話、何かをお世話する話、日本人が入らない町を案内する話、警察力が及ばない隣町の話、台湾人や香港人の悪さの話等等です。
 冒険者にとっては、上海の町はスリリング、眠くならない町、目が覚醒する町、頭がスッキリする町、野望が生じる町、青春が再復興する町、金と体力があれば何でもできると思える町と思われます。私も大陸の冒険者となって中国大陸を彷徨った歴史ができましたので、明日は上海の夜の冒険を思い出しながら記してみます。
               アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
 
寧波の道元が上陸した杭州湾から20km遡上した川港

2013年11月5日火曜日

1997年のアメリカ(ハドソン川対岸のニュージャジー)・・・12

2013.11.5火 快晴 午前7:20
 友人がニューヨークは対岸のニュージャジーから見ると綺麗なんだと連れて行ってくれた。ニューヨークの夜をハドソン川の対岸から見て満喫した。今はもう無いツインタワービル、摩天楼、この世にあるあらゆるネオンを見たような気がした。正に24時間眠らない町のようでした。この町で生活をしていたら私は何をやっていたのかとフッと思った。対岸のレストランで夕食をごちそうになったが、何を食べたかは忘れてしまいました。覚えているのはハドソン川の水面がネオンやマンハッタンの明かりでキラキラとやけに輝いていることだけでした。
 次の日、ハドソン川に浮かぶ航空母艦の上で旧軍人たちのファミリーパーティを拝見できました。
お歳に関係なく、明るく、賑やかで人生を謳歌している老人達を見て、日本人として少々の恥ずかしさ又は反省を感じたことは、可笑しいでしょうか。明日は中国を掲載します。
                アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

2013年11月4日月曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク郊外)・・・11

2013.11.4月 雨 午前7:00
 始めてのアメリカは旅行ガイド無しで歩くほかありませんでした。最初はニューヨークの友人が
あちこち連れて歩いてくれました。その中でも郊外の農場に行った時の話ですが、大きな家に案内をされて入りました。そこにはアメリカ人でなく、日本人が住んでいました。そこではいきなりビジネスの話をされて戸惑い、何が何だか分からない訪問になってしまいました。その農場には大きな畜舎とサイロがあり、アメリカの農家とはこのようになっているのかとしみじみ見渡してしまいました。
家の主人はいなかったのですが、ビジネスの機会での再会を約束して、その家をおいとましました。始めて遭った人でも、アメリカではビジネスチャンスを熱心に話すことに興味を覚えました。その農家に行く途中の美しい湖畔のケーキ屋で、お土産にケーキを買ったことを覚えています。聞くところによると、アメリカの別荘の建築許可は3,000坪以上の面積が無いと建築許可が出ないととのことです。その日本人がいうには「アメリカは民主主義でなく、金欲主義だ」と言っていましたが、私には直ちに理解ができませんでした。アメリカドリームを直接的な日本語にすると、良い意味での金欲かなと理解をしました。大なり小なり、アメリカの「ドル」は世界にとても大きな影響力を持っています。この影響力の源はドルの力でないでしょうか。全世界の人間にとってマネーは永久に不思議なものの一つですね。私も大資本に触れてみたいと念じています。小笑笑笑。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
                      ロスの大資本群の風景
               

2013年11月3日日曜日

1997年のアメリカ(マンハッタンからロングアイランドへ)・・・10

2013.11.3日 曇り 午前7:00
 アメリカでの初めての運転はマンハッタンからロングアイランドまでのレンタカーによるドライブでした。ビュイックを借りて怖々とした運転で約往復200kmの運転をしました。無事故無違反でしたが、周囲の環境を楽しむまでには至りませんでした。少しばかりの景色の記憶がありますので
記してみます。
 マンハッタンからロングアイランドに入る道路はローカル道路であるが綺麗に整備されています。日本の道路と違うのは、草木や小動物を保護する道路標識がやたらと立っていたことであります。
巨大な土地を持つアメリカは、日本と比べて全てに余裕があるように見えます。道路の舗装、
公衆トイレ等の共同施設、民間の会社の建物、働いているの人々の表情、自由主義アメリカンドリーム、そこに住む人種のエネルギーは、まさしくパワーの源のように見えました。そして、その土地や海に住んでいる生き物は日本に比べて数割増しの大きさです。人でも牛でも魚でも大きかったです。何もかも大きい国の夢もけた外れに大きいようですから、全て小づくりの日本人は心してアメリカと向き合う必要があると思いました。
 
             
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

                 
空の大きさと大きな景色に広い道路