2013年10月30日水曜日

1987年の中国(上海の夜)・・・9

2013.10.30 水 雨 午前7:30
 始めての上海とその夜の旅は、無味乾燥の旅にならないように町にスリルを求めて彷徨した。
赤いネオンを探して彷徨っていると、遠くに幽かに小さい赤い灯篭のようなランプを見た。流行る気持ちを抑えてそこに向かう。その途中で僅かに資本主義の兆しを発見した。それは高いビルの谷間の暗闇で蠢いている怪しい人を見た。何かと思い、そこに近ずくとバタバタと本らしいものを大袋に詰め込む慌てる人がいた。私はまだ残っている本を手に取り、その本らしいものを暗闇でよく見た。何とそれは色本の類であった。私は相手に思わず「ノープロブレム」と叫び「ハウーマッチ」と言ってしまった。相手は「・・・・・・」と言ったが、当時の私には中国語は理解できないので「ソリー」と言い、その場から退出した。赤いネオンは餃子屋さんで、私の僅かな上海ロマンは儚く消滅してしまった。始めての上海の感想は、夜は暗闇の町、昼は悪臭の町でした。それからの上海の大発展は全世界の人が認めています。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年10月29日火曜日

1987年の中国(上海虹橋空港から市内へ向かう)・・・8

2013.10.29火 快晴 午前7:00
 この年、日中友好協会会長のカバン持ちで北京と上海に行きました。北京の空港は日本の田中総理が国交回復で降り立った当時のままの様相でした。同じく上海の虹橋空港も暗く、何とも言えない共産圏の空港の様相でした。飛行機が滑走路に着いてから到着ロビーに出るまでは、何があるのだろうかとキョロキョロを繰り返しながら、荷物の受け取り台まで行き、私はホッとして、煙草をくわえた瞬間に、ポンポンと背を叩かれ女性の係員に罰金を取られました。煙草好きの中国人に煙草吸いの罰金を取られるなんて、なんて恥ずかしいことをしてしまったのかと、恥ずかしい思いをしたことを思い出しています。
 日本製か中国製か分からないマイクロバスで虹橋空港から上海に入る道路は暗く、シーンとして、まるで深夜のような様相でしたが、町の中心に入ると明りがややや多くなり、ホッとした気持ちになりました。ホテルは戦前からある上海ホテルで、部屋に入るとそれなりの部屋でしたが、ホテルの係員を見ると共産圏の公務員風で、何も頼めない雰囲気がありました。公務員風から、明日は早朝4:00起き、蘇州行きの列車は5:30発で行き先の距離は100kmくらい、蘇州着は7:30ごろと言われ、距離と走行時間が合わないなと感じましたが、共産圏では言われるままにする他ないと思い、それに従って寝る他ない旅をしました。次回は蘇州から無錫の旅を掲載します。
                   アメリカ・中国馬賊隊・・・照沼重輝

                  

      上海の沖合50kmの島に作られた中国最大の貿易港・船の先が日本列島方面

2013年10月27日日曜日

1988年の中国(北京での晩餐会の席で)・・・7

2013.10.28(日)台風一過快晴 午前10:30
 1988年日中友好協会会長のカバン持ちで北京に行きました。円卓テーブルを囲んで夕食会になった時の話です。場所は北京ダッグで有名な店でした。川津子之吉茨城県日中友好協会会長の隣の席に日中国交回復で活躍した孫平化中日友好協会会長、同じ協会の副会長や事務長などの役員が座り、私もこのテーブルに茨城県日中友好協会事務局長として着いていました。日本と中国の政治問題や過去の戦争などの話が出てワイワイと賑やかでした。孫平化会長が私に、
「日本はどうして戦争に負けたのかな」と質問を浴びせてきました。当時の私は、過去の政治や戦争に興味が無いので回答に、咄嗟に困りました。何故、中国政府の大物がこのような質問を31歳の私にしたのか等とも考えませんでしたが、私は「日本の正義と中国の正義の戦いでしたから
より大きな正義が勝ったのかもしれない」とやっと答えました。孫平化会長は反論もせず、「フム」と
いった怪訝な表情をしただけでした。それから34年、このときの同席した役員は中国政府の重要人物に出世し、外交部長や中日友好協会の役員にまでなっています。それに比較し私は、
アメリカの縦横断や中国の冒険等を楽しんでいる平凡な日本国民です。しかし、身はアメリカや
中国にあっても、日本国民としての矜持を維持しています。中国人やアメリカア人とビジネスの対峙をしても遜色ないように頑張っています。笑。
クリントン大統領を水戸に向かえた時の隣席で二度とない名誉でした

2013年10月26日土曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク)・・・6

2013年10月26日土 雨 午前7:30
 鍵がかかったままでエンジンがかかっている車を見ているのは健康上極めて悪い。交通整理の
警官や野次馬、何とかしてやろうとするニューヨーク子等が車を取り巻く。茫然とする私、下手な英語ですみませんの連発しか無い状態である。パトカーが通りかかった。頼もしそうな警官が来て
「道具が無い」と呟く。頼もしそうな警官が駄目だというので、更に落胆する私。近くのガソリンスタンドの店員が道具を持って来てくれた。窓の隙間から物差板みたいな物を入れて簡単に開けてくれた」感激、思わずチップをはずんでしまった。おまけに警官にまで寸志をはずんでしまった。
 アメリカでは経験のないアクシデントがよく起きます。安く処理ができる場合と高い処理費用が
かかる場合があります。そういう場合は、誰にでも沈着冷静に近くの人に援軍を求めるのが最善です。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
ワシントンンに彷徨う

2013年10月25日金曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク)・・・5

2013.10.25金 雨 午前5:40
 ニューヨークマンハッタンのひとどおりの見学が終わりホッとした時、ブロンクスの坂の途中で珍しいビルを見たので、慌てて車を止め、エンジンをかけたままで車外に出てしまった。このことは
日本では何でもないが、アメリカでは車に関する間抜けの金のかかる出来ごとになってしまいます。アメリカのちょとした車は、エンジンがかかったまま社外に出ると自動ロックされ、自らではどうしようもないことになってしまいます。車の外からエンジンがかかったままの車を冷や汗をかきながら見ているほかないのは、精神健康上に極めて悪い出来ごとになってしまいます。車はブルンブルン震えながら、早く窓を開けてエンジンを切ってくれと泣いているように見え、鍵屋かレスキューを呼ぶほか無い状態が続きます。その時のリカバリーは、道路に立ってパトカーを待つか、近くの
ガソリンスタンドに行って、窓を開ける手配を頼むほかありません。冷や汗をかく精神状態の良くない時間が続きます。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年10月24日木曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク)・・・4

2013.10.24 木 曇天 午前7:20
 テロに爆破されたツインタワービルの下で弁当を食べていたことがあります。レントした車の中で
駐車違反を警戒しながら食べていました。案の定、駐車違反専門の警官が来て「ノーパーキング」
と叫び、私に移動するように指示をしてきました。私は「ソリー・ソリー」と言いながら車をスタート
し、隣のブロックまで行って車を止めて、食べ残した弁当をゆっくり頂きましたが、駐車した車の場所は、先ほどのツインタワービルの景観より悪くなり、景色など見ないで食べる方が良い場所になってしまいました。とにかく、ニューヨークでは交通違反をしたら100ドルは取られてしまうので要注意との思い出があります。
 もう一つ、16年前のニューヨークで車に関しての大きなアクシデンンとがあったので明日に掲載します。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年10月22日火曜日

1997年のアメリカ(ニューヨーク)・・・3

2013.10.22火 雨 午前6:50
 初めてアメリカに行ったのは1997年の5月でした。ニューヨークでコンビニを経営する日本人を訪ねて行きました。空港からタクシーに乗り、マンハッタンのシェラトンホテルに予約を入れておいたので行ったところ、予約は無いと言われ困った経験があります。それでも何とかシェラトンに泊まったのですが、色々な困ったことがありました。食事、交通等の身近な問題で困りました。マンハッタのホテルは当時でも一泊が3万円前後、タクシーはチャーターすると午前中で2万円程度でお金をまき散らかさないとニューヨークでは行動できませんでした。後で分かったのですが、観光ルートで動くとバカ高いコストがかかるわけです。友人から高いホテルは止めてモーテルに移るように勧められ、ロングアイランドのモーテルに泊まったところ1万円前後で泊まれました。しかし、このモーテルも高いほうで隣のニュージャー州に入れば6千円前後のモーテルで泊まれることなども更に後で分かりました。
 次にタクシーが高いのでレンタカーを友人に勧められ、ハーツレンタカーに行き車を調達しました。ビゥックという車を借りて、ロングアイランドの最先端まで運転の練習をかねて200kmのドライブをしました。何処までも続く砂浜とニューヨークの高級別荘地、途中に鮫の映画で有名なジョーンズビーチがある所です。空を飛ぶ鴨は日本より大きく、海に泳ぐ魚も日本より大きく、何もかも
日本の1.5倍の大きさです。土地が大きいと人間も大きくなり、生物や植物も大きくなる傾向が
あるのかなと単純な感動を受けました。続きは明日にします。

                
              ネオン無し、山ありの安めの郊外モーテルで早朝に撮影
                アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝

2013年10月21日月曜日

1987年当時の中国旅行(香港)・・・2

2013.10.21月 快晴だが台風到来前 午前6:40
 

 40年前の1966年に初めて海外に行った。職場の友達とはしゃぎながらの香港でしたが、私にとっては初めての海外でした。今でも覚えているが、飛行機が香港市内の空港に着陸する瞬間は、あーこれが海外かと感動しました。日清製粉のチャルメラーメンの大きな看板が空港のどこかに掲げられていましたことが今でも記憶にあります。空港からホテルに入る道筋に派手な看板が煌き、ホテルやその周辺は欧米人の金持ちのように見える外国人で一杯でした。ガイドがついた
ワンパターンの旅行でしたが、私にとっては初めての海外旅行でしたから満足でした。行くまでに
中国全土の地図は全く見なかったので、香港がアジアのどの位置に属するのかな等とは考える暇もありませんでした。とにかく、この旅行が安全で、しかも楽しく終わったことが、簡単に海外旅行は
出来るんだとの自信を得ました。
 この香港行きは、私の好奇心を加速させました。これが私の40年に渡る海外大陸を彷徨う出発点となりました。
 明日はアメリカ旅行の出発点を掲載します。
                  アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
昔、道元禅師が留学で上陸した寧波の港(最近写)
昔の旅支度の中国人の銅像
 

2013年10月20日日曜日

アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・1

2013.10.20 日 曇天 午前8:20
 今までに色々なタイトルを掲げて掲載をしてきました。アメリカの縦横断を8回重ねたり、中国に200回以上の渡航歴を重ねたりもしましたが、掲載する記事は主にドライブ旅行だけでした。これでは一定の範囲だけで、読者の皆様の役に立たないことに気がつきましたので、明日からはタイトルを変えて掲載する内容に変化をつけてみようと思っています。掲載の順序もアメリカと中国を
交互に掲載して楽しもう思っています。そして、その旅の中から、一度も事故に遭わない人間の人間力の研究?などもしようかなと思っています。研究者でない私の観察力はありませんが、素人力だけでこのテーマを乗り越えてみようと思います。
 何故、馬賊隊なのかは無鉄砲的な旅行を重ねてきたから、その「行き当たり・ばったり・土壇場の
突破力」だけを頼りとしている者に相応しいとネーム考えたからです。
 
 最初の中国上陸は1987年で最初のアメリカ上陸は1993年でした。両国の第一印象は、「アメリカは煌めきながら繁栄中、中国は文革後の暗闇が続いてるが、一筋の光が見いだされ始まった国」でした。これらの両国を交互に掲載しますので、ご笑読頂けば嬉しく思います。
                 アメリカ・中国大陸馬賊隊・・・照沼重輝
アメリカぺブルビーチゴルフ場と別荘2013.9.15